「はぁ……」
 誰もいないロッカールームで一人溜息をつく。
 いつからだろう? プロデューサーさんのことを思うとき、こんなにも胸の奥が苦しいと感じるようになったのは。
 それが恋愛感情に由来するものなのか、まだ確信が持てない。
 ただ、いくら溜息をついたところで、苦しさが消えて無くなることはない。
 それくらいは、私だってわかってる。わかってるんだ。
 だけど、それでも、溜息をついてしまう。
 私とプロデューサーさんとの間に感じる距離。見えない壁。埋められない溝。
 今の私には、その隔たりを乗り越える自信がない。
 だから、切なくて、苦しくて、堪えきれなくて……。
 プロデューサーさんに特別な思いを寄せているのは、私だけじゃない。と思う。
 765プロに所属する他のアイドルやアイドル候補生たちも、程度の差こそあれ、プロデューサーさんのことを慕っている。そう感じる。
 そんな彼女たちと比べたとき、歌でも、ダンスでも、容姿でも、あるいは性格面においてでも、何か傑出したもの――特徴的な個性――が私には欠けている。
 だから、陰では無個性なアイドルだと評されていることも知っている。
 プロデューサーさんは気遣ってくれて、そうした評判がなるべく私の耳に入らないようにしてくれているけれど、この情報化社会ではどうしたって隠し通すことなんてできない。

 平凡。普通。地味。無個性。

 確かに、その通りだと思う。
 千早ちゃんみたいに歌が上手なわけでもなく、真みたいにダンスが得意なわけでもなく、美希みたいにナイスボディなわけでもなく、やよいみたいに健気なわけでもなく、あずささんみたいに癒し系なわけでもなく。
 それなのに、どうして私はアイドルなんてやっているんだろう……?
「あら? 歌が好きなんじゃなかったの?」
 不意に聞こえてきた声に、私は慌てて顔を上げた。
 今、このロッカールームには私しかいないはず。
 そう思いながら、何気なく背後を振り返って、私は凍りついた。
 そこには、私が……もう一人の私が立っていたから。
「何も、そこまで驚くことないじゃない。失礼ね」
 と言ってから、もう一人の私は艶然と微笑んだ。
 その表情と言葉遣いに、私は違和感を覚えた。
 これは、私なの?
 髪型もトレードマークのリボンも一緒だけど、本当に私なのだろうか?
「……あなた、誰?」
 と訊ねると、もう一人の私は冴えた眼差しを私に向けた。
「そう訊きたくなる気持ちはわかるけど。でも、わかっているんでしょう? 本当は」
けれど、私は応えることができなかった。
 黙り込む私を見て、彼女は小さく息を吐いて髪をかき上げた。
 その仕草は、女の私から見ても、ゾクッとするほど色っぽかった。
「言えないのなら、言ってあげるわ。私は、もう一人の天海春香。そうね。あなたの影と言えばいいかしら」
「……私の、影……?」
「そう。あなたの影。私はあなた。あなたは私」
「でも、私はあなたのことなんて、知らない」
「違うわね。知らないふりをしているだけ」
「どうして、そんなことがわかるの?」
「だって、私はあなただもの。自分自身のことがわかるのは、当然でしょう?」
「な……」
「そんな情けない顔しないでよ。こっちまで惨めな気持ちになるじゃない」
 もう一人の私の言葉は、なぜか私の胸に深く突き刺さった。
 何も言い返すことができなかった。
「本当にわかってないみたいね。……まぁ、いいわ。簡単に言うとね、これまでにあなたが半ば無意識的に封じ込めてきた想いの集積。それが、私」
「それが、あなた……?」
「そう。だから、私はあなた。あなたは私」
 彼女は、もう一人の私だという彼女は、同じフレーズを繰り返した。
「……嘘」
「嘘じゃないわ。だって、私もプロデューサーのことが大好きだもの」
「え……?」
「好きなんでしょう? あなたも、彼のことが」
 もう一人の私。その細い指が私の顎をとらえる。頬を撫でる。
 ひんやりとした感覚に、体が震える。
 それなのに、私は身動きすることができなかった。
 逃げ出すことも、大声で助けを呼ぶこともできなかった。
 だって、私がプロデューサーさんのことが好きなのは紛れもない事実だと、そう気づかされてしまったから。
「好きなんでしょう?」
 押し込むように、ねじ込むように訊いてくる、もう一人の私。
 私は頷くしかなかった。
「好き、だよ。もちろんだよ」
「だったら、どうしてその気持ちから逃げるの?」
「に、逃げてなんかいないよ……」
「それこそ嘘だわ。あの鈍い男に、面と向かって好きだと言わないで、気持ちが伝わるとでも思ってるの?」
「そ、それは……」
「グズグズしている暇は無いはずよ。プロデューサーのことを好きでいるのは、あなただけじゃないわ。貧乳や、ゆとりや、男女や、年増y――」
「765プロの仲間を、そんな風に言わないでっ!!」
「甘いわね。この世界では、自分以外の全てがライバルよ。誰もが同じように幸せになれるだなんて思わないことね」
「違う違うっ! そんなの間違ってるよっ!」
「間違っていようといまいと、彼の隣に座ることができるのは唯一人だけ」
「っ……」
「それが真実。……違うかしら?」
 確かに、そうかもしれない。けれど――
「戦う前から負けたときのことを考えていて、どうするの?」
「え……?」
「まだ、当たって砕けると決まったわけじゃない。それなのに、どうしてあなたは弱気でいるの?」
「だって、私は……」
「私は何? 如月千早より歌唱力が劣る? 星井美希ほどスタイルがよくない? 笑わせるわね、まったく。愚かしいにも程があるわ。ライバルの一番優れた部分で張り合えば、勝てるわけがないのは当たり前。天海春香には、天海春香の長所がある。そこで勝負なさい」
「けど……」
「けど、何だって言うの? 没個性? 普通? そんな世間の評判に、あなた自身が惑わされていてどうするのよ」
「でも……」
「デモもストもないわ。あなたが本当に何の取り得もない、平々凡々とした少女なら、こうしてAランクアイドルの座にまで登り詰められると思う? あなたには魅力がある。天性のアイドルとしての魅力が。少なくとも、あなたのプロデューサーは、そう信じている。彼にプロデュースされているあなたが、そのことを一番よくわかっているはずでしょう?」
 私には、返す言葉がなかった。
 彼女の言う通りだ。プロデューサーさんとがんばってきた私を信じないで、いったい何を信じると言うのか。
「……ようやく気付いたようね」
 そう言うと、もう一人の私は満足そうな笑みを浮かべて、私から離れた。
「もっと自分に自信を持ちなさい。個々の能力では、確かにライバルたちには引けを取るかもしれない。でも、歌うことが大好きで、その楽しさを少しでも多くの人に伝えたい。そのひたむきな気持ちだけは、誰にも負けない――でしょ?」
「うん……」
「だったら、胸を張りなさい。自分の気持ちに素直になりなさい。他人がどう思うかじゃない。自分がどうしたいか。それが一番大事なのだから」
 その言葉は、ひときわ大きく響いた。
 自分がどうしたいか。
 そんなの決まってる。わかりきっている。
 だけど、その手前で足を止めてしまっている自分がいる。理由は簡単だ。物足りなさを感じてはいても、それなりに充実しているプロデューサーさんとの関係。そこに一歩踏み込むことで、今までの関係を全て失ってしまうことが怖いのだ。
「失うことを恐れていては、何も手に入らないわ」
 まるで私の心中を見透かしたかのように、もう一人の私が告げる。
 いや、きっと筒抜けなのだろう。
 彼女には隠し事ができないに違いない。
「がんばる……。私、がんばるよ」
 私がそう告げると、もう一人の私はにっこりと微笑んだ。
「しっかりね」
 そう言い残して、もう一人の私は忽然と姿を消した。
 全ては白昼夢に過ぎなかったのだろうか。
 けれど、彼女が触れた指の冷たさを、柔らかい感覚を、息遣いを、まだ覚えている。
 彼女とのやり取りが幻だったとはとても信じられなくて、私はロッカールームの床にへたり込んだ。
 とはいえ、このまま放心しているわけにはいかない。
 溜め込んでいた息を一気に吐き出してから、膝に手を当てて立ち上がる。
「いつまでも、ためらっていちゃダメだよね……」
 自分に言い聞かせるように呟く。
 着替えを済ませ、ロッカールームを出る。
 ドアを開けて外へ出ると、廊下にプロデューサーさんが立っていた。
「ずいぶん遅かったけど、何かあったのか?」
 何かあったかと言われれば、確かにあった。
 だけど、もう一人の自分に出会って叱咤されたなんて言っても、まともに取り合ってはもらえないだろう。私なら、きっと取り合わない。
 だから、私は小さくかぶりを振った。
「いえ。ちょっと考え事をしていただけです」
「そっか……。なら、いいんだけどな」
 そう言って歩き出すプロデューサーさんを追いかけて、その隣に並ぶ。
 まだ、想いを伝える勇気はないけれど、いつか必ず、と心に誓う。
 それが私なりのやり方。
 他人から見れば小さな一歩でしかないだろうけれど、私にとっては大きな一歩。
 大事なのは、ここから後戻りしないこと。
 そうすることが、背中を押してくれた彼女に報いる、ただひとつの方法だと思うから。


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初出:【春香】天海春香 24周目【空へ】


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