向かいの席に座る春香が、ふと空を仰いだ。
「あ、雪……」
春香の視線を追いかけるようにして、俺も空を見上げる。
昼過ぎから降り続いていた雨が、いつの間にか雪に変わっていた。
道理で寒いわけだ。
ドームでのラストコンサートから、既に半年が過ぎていた。
春香のプロデュースから離れた俺は、765プロに所属する他のアイドル候補生たちをデビューさせるべく、準備作業に追われている。
春香はというと、二ヶ月ほどの休養期間を経た後、同期生の如月千早と組んで再デビューを果たしていた。デビューしてから、まだ数ヶ月しか経っていないが、滑り出しは順調のようで、テレビや雑誌などで二人のツーショットを目にすることも多い。
今では春香と一緒に仕事をする機会はないけど、オフに顔を合わせては、喫茶店でお茶を飲みながら近況を報告し合ったり、他愛もない雑談をしたりしている。時には、仕事の相談に乗ることだってある。
担当プロデューサーではなくなった今でも、春香が俺のことを『プロデューサーさん』と呼んで慕ってくれることは、素直に嬉しい。
ラストコンサート終了後に春香と別れる時には、もう二度と会えないことも覚悟していた。春香のためだと言ってはみても、彼女の思いを拒んだことに変わりはなく、そこで縁が切れてもおかしくはなかったから。
けれど、いつの間にか、メールを交換し、電話をし、こうして二人で会うようになっていた。
恋人ではない。かといって、友人でもない。勿論、ただの同僚とも違う。
そんな微妙な距離感を保った関係でいられることが、今は幸せだと感じる。
視線を戻すと、まだ春香は舞い散る雪を眺めていた。
いや、見つめている、と言うべきなのかもしれない。
「積もるかなぁ……」
ポツリと春香が呟く。
「どうだろうな」
「もし積もったら、雪だるま、作りたいですね」
そう言って微笑む春香に、ドキリとする。
間違いなく春香に惹かれている。そんな自分を明確に意識する瞬間。
だが、その気持ちを口に出すことはしない。
春香がトップアイドルとして輝き続けるために必要なことは、何だってやると決めていたから。
そのためには、俺の個人的な欲求など、二の次、三の次だ。そう自分に言い聞かせる。
「ねぇ、プロデューサーさん?」
「どうした、春香」
「約束、まだ覚えてますか?」
俺と春香の間で『約束』という言葉が指し示す内容は、ひとつだけ。
「アイドル辞めたら――ってヤツだろ。覚えてるよ」
「よかった」
「でも、まだ春香はアイドルを辞めるつもりはないんだろ?」
「はい。やってみたいこと、沢山あるし、それに、千早ちゃんと組んでの活動も楽しいから」
「そうか」
そう応えて、俺は再び窓の外へ目を移す。
四角い窓枠に切り取られた空は、まるで映画のスクリーンに投射された別世界のようで、不思議な非現実感に満ちていた。
カップを手に取り、口へ運ぶ。
コーヒーはぬるいのを通り越して、冷たくなり始めていた。
「そろそろ行こうか」
「はい」
伝票を掴んで席を立つ。
レジで精算を済ませて外へ出ると、予想以上の寒さだった。
吹きすさぶ風が頬に当たると、肌が切れそうな程だ。
だが、春香は叩きつけるように降る雪にめげることなく、まっすぐに空を見上げていた。
その瞳に映るのは、何だろうか。
雲間から微かに射しこむ光の向こうに、何を見ているのだろうか。
トップアイドルとしての自分の将来なのか。それとも……。
「プロデューサーさん……」
「何だ?」
「これからも、私のこと、見ていてくれますか?」
まるで、俺の心中を見透かしたかのように、春香が言葉を投げかけてくる。
「春香が望むなら、ずっと」
そう答えて、春香の手を取る。
「もう俺は春香のプロデューサーじゃないけど。だけど、いつでも春香のことを応援しているから。いつまでも、春香の一番のファンであり続けるから」
「プロデューサーさん……」
と、震える声で俺の胸元に顔をうずめる春香。
「春香……?」
「ごめんなさい、プロデューサーさん。でも、今だけは……」
本当はいけないことだと、二人ともわかっている。
けれども、涙声の春香を引き剥がすような強さも、冷たさも、俺にはなくて。
だから、俺は春香をそっと抱きしめた。
せめて今だけでも、こうして春香を守っていたい。その願いは、きっと正しいはずだから。
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初出:【リーダーって】天海春香20周目【呼んで下さいね!】
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