「プロデューサーさんっ!」
 呼び掛けた私の声に、プロデューサーさんが足を止める。
 けれど、振り返らない。
 私はプロデューサーさんに追いつき、その背中に問い掛けた。
「765プロを辞めるって、本当なんですか?」
「あぁ、本当だよ」
「辞めて、どうするんですか」
「別の芸能事務所に行くつもりだ。そこで、試してみたいことがあるんだ」
「765プロでは、できないことなんですか」
「そうだな。もう準大手と呼べるレベルになった765プロではなく、立ち上がったばかりの新しい芸能プロダクションで、自分の力を試してみようと思ってる」
「そう、ですか……」
 ショックを隠しきれず、私は俯く。
 プロデューサーさんとの間に大きな溝ができたような気がした。
 そんな私の髪をくしゃくしゃと掻き混ぜるように撫でて、プロデューサーさんは笑った。
「心配するな。春香との約束は忘れてないさ」
 顔を上げると、そこには見慣れた優しい表情があった。
「その時が来たら、必ず迎えに行くよ」
「はい……」
「それじゃ、元気でな。春香」
「はい……」
「事務所のみんなにもよろしく言っておいてくれ」
「はい……。お元気で、プロデューサーさん」
 言いたいことは、他にもたくさんあった。
 けれど、言葉にはならなかった。
 感情がいっぱいあり過ぎて、出口で詰まってしまったような、そんな感じだった。
 立ち去るプロデューサーさんの背中が見えなくなるまで、私は事務所の前の道路に立ち尽くしていた。


***


 ――三年後。

 私、天海春香はアイドルとしての活動を終了することになった。
 今度こそ、正真正銘の引退だ。もう再始動はしないと決めていた。
 引退コンサートの会場となったドームスタジアムの控え室で、私は最後の準備を進めていた。
 けれど、どうにもテンションが上がらない。
 泣いても笑っても、これが最後だというのに……。
 そんな私の気分を敏感に察して、応援に来てくれていた事務所の仲間たちが気分転換を勧めてくれた。
「ちょっと、外の風に当たってきた方がいいんじゃないかしら?」
 そうアドバイスしてくれた千早ちゃんに楽屋を任せて、私はスタッフ専用の通用口から外へ出た。
 涼しげな風が私の頬を撫でる。
 やっぱり、外は気持ちいい。
 私はぐぐっと背伸びして、深呼吸をした。
 けれど、心の奥底にまだ何かが引っ掛かっている。
 こんな精神状態で、今日のコンサートは上手く行くんだろうか。
 大事なステージだというのに……。
「浮かない顔しているなんて、らしくないな」
 不意に耳に飛び込んできた聞き覚えのある声に、私は顔を上げた。
「よう。久しぶりだな、春香」
 関係者以外立入禁止のロープを潜り抜けてこちらに向かって歩いてくるのは、プロデューサーさんだった。この距離では見間違えようもない。
「どうして、ここに?」
「コネをフル活用したんだ。この業界じゃ、それなりに名前が売れてるからな」
 そう言いながら、プロデューサーさんは首から掛けたパスを示してみせた。
 765プロを辞めた後、プロデューサーさんはできたばかりの芸能事務所に入って、幾人ものアイドルをプロデュースしてきた。
 当然、その子たちは、私たちのライバルになる。プロデューサーさんの教え子と同じオーディションに参加したことは、一度や二度じゃない。私が勝ったこともあれば、負けたこともある。複数の合格枠を分け合ったこともあった。
 この三年でプロデューサーさんの所属する事務所は急成長を遂げ、765プロと肩を並べるまでになっていた。その立役者であるプロデューサーさんは、今では芸能界で名前を知らない人はいないくらいになっていた。
 そんなプロデューサーさんのコネを使えば、私のコンサートのゲストパスを手に入れることは、それほど難しいことではないのかもしれない。
「765プロを辞めてからは、あまり連絡を取ることもなかったけど、春香の活躍はずっと見ていたからな。最後の晴れ舞台なんだろ、今日が」
「はい」
「それじゃあ、もっと胸を張って、堂々としてなきゃ。ドーム一杯のファンのためにも、最高のパフォーマンスを見せないと、な?」
 そんな励ましに、私は胸が熱くなった。
 765プロを離れても、私のことを気に掛けてくれていたんだとわかって、すごく嬉しかった。
「ありがとうございます。やっぱり、最後に私を力づけてくれるのは、プロデューサーさんなんですね」
「……あまり恥ずかしいこと言うなよな」
「恥ずかしくなんかないです。だって、本当のことなんですから」
「まったく……。ところで、例の約束、覚えてるか?」
「忘れたことなんてありません」
 そう答えると、プロデューサーさんは小さく笑った。
「そうか。じゃあ、今日のステージが終わったら話をしよう。それでいいか?」
「はい」
 頷く私の頭を撫でて、プロデューサーさんは言った。
「しっかりな、春香。最後のステージ、しっかり決めろよ」
「はいっ!」
「よし、元気出てきたな。そろそろ、みんなも待ちかねている頃だろう。行ってこい、春香」
 プロデューサーさんに背中を押されて、私は楽屋へ向かって歩き出す。
 ついさっきまで感じていた胸の中のモヤモヤは、どこかに吹き飛んでしまっていた。
 意気揚々と楽屋のドアを開ける。
 広い控え室には、今日のコンサートを支えるバンドメンバーと主要スタッフが勢揃いしていた。
「気分転換、できたみたいね」
 そう耳打ちしてきた千早ちゃんに微笑みを返して、私はバンドメンバーとスタッフに向き直る。
「私にとって、今日が最後のステージになります。悔いが残らないように、最高のステージにしたいと思います。どうか、皆さんの力を貸してください」
 そう挨拶をしてから、私たちは円陣を組んだ。
「行くぞっ、おーっ!!」
 気合いを入れて、ステージへと向かう。
 開演時刻まで、あとわずか。
 ステージ上の所定の位置にバンドメンバーがスタンバイし、機材の最終チェックが完了する。
 一曲目の演奏開始と同時に、観客席から聞こえていたざわめきが歓声に変わる。
 衣装とメイクのチェックにも問題はない。
「よしっ……」
 小さな掛け声を残して、私は特設されたステージへと駆け上がった。


***


 引退コンサートは無事に終了した。
 考えられる限りで、最高のステージになった――というのは、自画自賛ではなくて、客席で観てくれていた千早ちゃんの評価だから、ちょっとは自信を持ってもいいかなと思う。
 コンサートの成功に打ち上げ気分で盛り上がる控え室をそっと抜け出して、私は通用口から外へ出た。
 思った通り、プロデューサーさんが待っていてくれた。
「素晴らしいステージだったよ、春香」
「そう言ってもらえて、安心しました」
「惜しむらくは、俺の手でここまでプロデュースできなかったこと、かな」
「でも、プロデューサーさんがいてくれたからこそ、私はアイドルになれたんだし、ここまで走ってこられたんです。感謝しています」
「ありがとう、春香」
 そう言ってから、プロデューサーさんは言葉を切って、夜空を見上げた。
「話の続きをする。そういう約束だったよな」
「はい」
「どうなんだ?」
 訊ねる言葉は短かった。
 けれど、それで十分だった。
「私の気持ちは変わりません。今までも、これからも。プロデューサーさんこそ、どうなんです? 誰か素敵な女性でも見つけちゃいましたか?」
 冗談めかして訊いてみたけれど、内心は冷や汗ものだった。
 本当に『いい人』ができていたりしたら、私はどうしていいかわからない。
 けど、そんな心配は杞憂だった。
「いいや」と、プロデューサーさんはゆっくり首を振った。
「そんな暇は無かったし、それに春香と約束したろ? 必ず迎えに行くって」
「覚えててくれたんですね」
「当たり前じゃないか。それとも、俺はそんなに薄情な人間に見えていたのか?」
「いいえ。でも、信じているからといって、不安にならないわけじゃないんですよ。だって、プロデューサーさんは優しいから」
「そうか?」
「そうですよ。そうやって、自覚なく誰にでも優しいから、不安になるんです。情にほだされて、他の人に流れちゃうんじゃないかなーって」
「そうか……」
「で、どうなんですか?」
 そう言って、私はプロデューサーさんの顔を覗き込んだ。
「そ、そんなに近付かなくても話はできるよ」
「わかってます。でも、私、プロデューサーさんからハッキリとした返事を聞いてないんですけれど?」
「そうだったな」と頷いて、プロデューサーさんは懐から小さな箱を取り出した。
「俺からの気持ちだ。よかったら、受け取ってくれないか」
 手渡された箱の包装をほどくと、中から化粧箱が現れた。
 蓋を開けると、そこには銀色に輝くリングが収まっていた。台座には、小さくて透明な石が煌めいている。
「これって……」
「春香の誕生石だ」
「え……」
「今すぐにというわけではないけど、結婚を前提として付き合ってくれないだろうか」
 それは、つまりプロポーズの言葉だった。
 私は頭が真っ白になった。
 こういうシチュエーションを空想したことが無いと言ったら、嘘になる。
 だけど、いざ直面してみると、何も言葉が出てこなかった。
 ただ嬉しいという感情だけが堰を切ったように溢れてきて、私は涙を堪えられなかった。
「は、春香?」
 いきなり泣き出した私を見て、プロデューサーさんが心配そうに声を掛けてくれた。
 だけど、私は何も答えることができなくて、プロデューサーさんがそっと抱き寄せてくれるのに身を任せているしかなかった。
 しばらくして気持ちが落ち着いてから、私はプロデューサーさんに頭を下げた。
「すみません。びっくりさせちゃいましたよね」
「あぁ。さすがにな」
「でも、嬉しくても涙が出るんだなってこと、改めて実感しました」
「それじゃあ……」
「不束者ですが、よろしくお願いしますね」
 そう言うやいなや、私は再びプロデューサーさんに抱きしめられていた。
「プロデューサーさん……?」
「実を言うと、俺も不安だったんだ」
「何がですか?」
「春香はかわいいし、気立てもいいから、周りの男たちが放っておかないだろうなと思ってた。もし他の男と一緒になるのなら、それはそれで仕方ないかなとも思いつつ、でも本当にそうなったらどうしようって」
「私と似たようなこと考えてたんですね。プロデューサーさんも」
「そうだな」
「大丈夫ですよ。私はどこにも行ったりしませんから」
「それって、本当は俺が言わなきゃいけない台詞だよな」
「かもしれませんね」
「これから、長い付き合いが始まるんだよな」
「そうですね。……そうだ。これから楽屋に顔を出していきませんか? 今日は、765プロのみんなも応援に来てくれているんですよ」
「でも、部外者の俺なんかが――」
「部外者じゃないですよ」
「え?」
「だって、私の婚約者なんでしょう? 思い切り関係者じゃないですか」
「……違いない。こりゃ、一本取られたな」
「さ、行きましょう♪」
 プロデューサーさんの腕を引いて、私は歩き出す。
 この『プロデューサーさん』という呼び方も、もう変えるべきなんだろうと思う。
 けれど、今日はこれで通そう。
 プロデューサーさんが、私にとって生涯ただ一人の特別なプロデューサーさんだという事実。それだけはずっと変わらないのだから。


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初出:【食べて下さい】天海春香 19個目【手作りの…エヘ】


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