「それでは、失礼します」
 私はお辞儀をして、社長室のドアを閉めた。
 ラストコンサートから一ヶ月が過ぎていた。
 私はアイドルをやめるつもりはなかった。少しお休みしたら、アイドルとしての活動を再開させたいと思っていた。
 だけど、これまでと同じように765プロダクションでアイドルを続けるかどうかについては、ずっと悩んでいた。
 私を育ててくれた、大好きなプロデューサーさんとは、もう一緒にお仕事できない。
 それならば、いっそのこと、他の芸能事務所に移って、そこで仕切り直すのも選択肢のひとつなんじゃないか。そんな思いが、ずっと胸の中でくすぶり続けていた。
 既に、複数の事務所から移籍のオファーを持ちかけられてもいる。
 その話を受けるかどうかはこれから考えることだけど、そういう話がきていること、気持ちに迷いがあることは、お世話になった社長に伝えておくべきだと思った。
 社長からは、当然のように765プロに留まることを求められた。
 けれど、私は答えを保留して、社長室を辞した。
 もう少し考える時間が欲しかった。
 事務所を出て、駅までの道を歩く。
 これから、私はどうすればいいんだろう?
 何度ため息をついても、胸の中のもやもやした気持ちはすっきりしない。
 それどころか、どんどんと深みにハマっていくような、そんな気分だった。
 考えれば考えるほど辛くなってきて、私は公園のベンチに座り込んだ。
 こんなとき、プロデューサーさんだったら、何て言うかな?
 あれからプロデューサーさんには会っていない。
 電話することも、メールすることも躊躇われて、一切の連絡を取っていなかった。
 でも、困ったときの相談相手として真っ先に思い浮かぶのは、やっぱりプロデューサーさんなのだった。
 私は携帯電話を取り出して、プロデューサーさんの電話番号を表示させた。
 だけど、通話ボタンを押す勇気が出なかった。
 念じただけで、プロデューサーさんに伝わればいいのに。
 そして、プロデューサーさんが来てくれればいいのに。
「春香っ!」
 こんな感じで、春香っ!って呼びながら、颯爽と駆けつけてくれたらな。

 ……え?

 私が首を巡らすと、公園の入口から真っ直ぐに走ってくるプロデューサーさんの姿が目に入った。
「プロデューサーさん……」
 すぐにプロデューサーさんは私の前までやってきて、息を切らせながら言った。
「春香……。事務所を辞めるって……、移籍するってのは、本当か?」
 私はプロデューサーさんの顔をまっすぐに見られなくて、地面に視線を落とした。
 拳をぎゅっと握りしめて、声を絞り出す。
「……そういうことも考えてます。けど、まだ決まったわけじゃありません」
「そうか……」
 と呟くプロデューサーさんの声は、どこか安心したようにも聞こえた。
「それじゃ、もう一度、俺と一緒にアイドルをやらないか?」
「え……」
 一瞬、私は自分の耳を疑った。
 もう一度、プロデューサーさんと一緒に?
「まだ移籍することが決まったわけじゃないんだろ?」
「はい」
「それじゃ、もう一度訊くぞ。俺のプロデュースで、アイドル活動を再開するつもりはないか?」
「いいんですか?」
「あぁ。社長の許可も取ってきた。あとは、春香さえOKなら、すぐにでもスタートできる」
「わ、私は、プロデューサーさんと一緒がいいです。一緒にアイドルをやりたいです……」
 それ以上は言葉にすることができなかった。
 嬉しくて、こみ上げる感情を抑えられなくて、涙が止まらなくて、視界がぼやけて何も見えなくなって、もしかしたら夢を見ているんじゃないか、もし夢なら醒めないで欲しい――なんて思っていたら、プロデューサーさんにほっぺたを引っ張られた。
「は、はにふるんへふはぁ〜〜〜っ!!」
 私が必死に抗議すると、プロデューサーさんは笑って手を離す。
「これが夢じゃなくて、現実だってわかったか?」
「はい……、十分すぎるほどに」
 そう答えて、私はひりひりする頬をさすった。
「もう、ひどいです。プロデューサーさん……」
「はは、ごめんな。それともう一つ、言いにくいことなんだが」
「何でしょう?」
「今、春香が座っているベンチな、ペンキ塗り立てなんだ」
「ええっ!!」
 慌てて立ち上がったけど、遅かった。
 つい今し方まで私が座っていた場所のペンキが剥げて、地の色が見えている。剥げたペンキが私のコートにべったりとくっついているであろうことは、確かめるまでもなかった。
「春香、もうそのコートは脱げ。な?」
 ガックリと肩を落とす私を見かねたのか、プロデューサーさんが宥めるように言う。
「でも……」
「いいから。そんなペンキべったりなコートを着て、街を歩くわけにはいかないだろ?」
「はい……」
 意気消沈してコートを脱ぐ。
 冷たい冬の風に震えていると、プロデューサーさんは自分が着ていたコートを私に着せてくれた。
 コートからは微かにプロデューサーさんの匂いがした。
「もう、これは無理だな」
 そう言って顔をしかめると、プロデューサーさんは私のコートを器用に丸めて、ペンキが付かないようにしてから、小脇に抱えた。
「今から、新しいコートを買いに行こう。それまでは、俺のコートで我慢しててくれ」
「いいんですか?」
「いいとも。新しい一歩を踏み出す記念のプレゼントってことで。でも、このコートはもう処分するしかないだろうな」
「そうですね」
 割と気に入っていたけれど、あれだけペンキ塗れになってしまっては、もう着ることもできない。
 私はプロデューサーさんからコートを受け取って、公園のゴミ箱に放り込んだ。
 コートと一緒にこれまでのもやもやした気持ちも全部捨て去った気分になって、私はぐぐっと伸びをした。
「行きましょう、プロデューサーさん!」
 そう言って、私は駆け出す。
「お、おい。もう少しゆっくり歩けよ。すっ転んでも知らないぞ」
「大丈夫ですよ――っと、あっ、わっ!!」
 言ってる傍から足をもつれさせてしまう私。
 だけど、今回は転ばずにすんだ。
 プロデューサーさんが私を受け止めてくれたから。
「油断も隙もないな、春香は」
「えへへへ……。でも、プロデューサーさんがしっかり受け止めてくれたから、大丈夫でした」
「ったく。俺がいなかったなら、どうするつもりなんだよ」
「転んじゃいますね」
「ダメじゃないか」
「だから……、だから、私の手、ずっと離さないでいてくれますか。これからも、ずっと……」
 そう言ってしまってから、顔に血が上るのが自分でもわかった。
 ラストコンサートの後で告白した時よりも、胸がドキドキしている。
「……わかった。ずっと春香の手、握ってる。もう離さないよ」
 そんなプロデューサーさんの優しい言葉に、また泣きそうになってしまう。
「バカ、そんな顔するなよ」
「だってぇ……」
 しゃくり上げる私をそっと抱きしめてくれるプロデューサーさんの温もりが、たまらなく愛しかった。
 だから、いつもより正直に自分の思いを口にすることができた。
「だって、私がプロデューサーさんのことが好きでいても、プロデューサーさんも私のことを好きでいてくれるとは限らないじゃないですかぁ……。不安だったんです、ずっと。二度と私の手の届かないところへ、プロデューサーさんが行ってしまうんじゃないかって」
「そうか」
 と言ったきり、プロデューサーさんはしばらく黙っていたけれど、やがて意を決したように口を開いた。
「……春香と別れてから、色んなこと考えてた。格好いいこと言って別れたけど、いざ離れてみると、春香のことばかり考えてたんだ。プロデュースのアイデアとか、どんどん浮かんできてさ。で、気付くんだ。自分はもう春香の担当じゃないってことにな。そのことがひどくショックでさ、会社を辞めようかとも思った。765プロにいると、どうしても春香のことが目に入る。それなのに、自分は関われないなんて辛すぎるからな。それで、今日、社長に話をしに行ったら、春香が移籍するかもしれないって話を聞かされてさ。それなら、もう一度、春香のプロデュースをやらせてくれって言ったんだ。確かにトップアイドルの座は得たけれど、やり残したこともいっぱいあったからな」
「それで、社長は何て言ったんですか?」
「やっぱり最初はいい顔しなかったよ。活動停止を指示したのは、社長だしな。でも、トップアイドルの春香を余所に引き抜かれるよりもマシだと判断したんだろうな。最終的にはオーケーが出た。……けどなぁ、春香」
「何ですか?」
「春香は、本当に俺でいいのか?」
 その問い掛けに、私は即答する。
「当たり前じゃないですか」
「春香……」
「私にとって、プロデューサーさんは一人だけ。そう決めているんです」
「ありがとう、春香」
「どういたしまして」
 コートの裾を払って立ち上がり、私はプロデューサーさんと向き合う。
「頑張りましょうね、プロデューサーさん」
「あぁ、頑張ろう」
 どちらからともなく手を差し伸べて、しっかりと握手を交わす。
 これから始まる新たなステージ。
 プロデューサーさんと一緒なら、今よりもっと高いところを目指せる。
 そして、その先には必ず幸せが待っている。
 そう信じているから。


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初出:【食べて下さい】天海春香 19個目【手作りの…エヘ】


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