「おはようございます!」
 始業時刻ギリギリに事務所に駆け込む。
 といっても、実質的には裁量労働制みたいなものなので、多少の遅刻で何か言われることなどないが。それでも、やはり一日のスタートは余裕を持って切りたいものである。
 ホッと一息吐いてから事務所内をぐるっと見渡して、頭数が足りないことに気付く。
「おはようございます、プロデューサーさん」
「おはようございます、小鳥さん。……ところで、春香はまだ来てないんですか? 今日はレッスンの日だから早めに事務所に来るって、昨日あんなに張り切ってたのに」
「あぁ、それならさっき、今日はお休みさせて欲しい、って連絡がありましたよ」
「休み、ですか?」
「えぇ。何だか熱っぽくて体がだるいんですって。風邪でしょうかね?」
「……マズいな」
「え? でも、春香ちゃんって実家暮らしでしょ? おうちの人がついてるんじゃ……」
「いやぁ、それが、昨日から春香のご両親は旅行に行ってるんですよ」
「ええっ!?」
「春香が自分のギャラで両親に三泊四日の沖縄旅行をプレゼントしたんです。それじゃ、あいつ、一人で寝てるのか……」
「プロデューサーさん?」
「小鳥さん! 俺のスケジュール、今日はどうなってましたっけ?」
 俺の質問に対して、小鳥さんから即座に答えが返ってくる。
「春香ちゃんのレッスンと……あとは、社内会議ですね。それ以外に特に予定は入ってません」
「それじゃ、今日の会議は欠席にしといてください。俺、今から春香の様子を見に行ってきますんで」
「事務所には戻ってくるんですか?」
「どうかな。春香の状態次第ですけどね。一応、直帰にしておいてください」
「わかりました。プロデューサーさんも気を付けて」
「ありがとうございます。それじゃ、行ってきます」
 俺は脱いでいたコートをもう一度羽織り、カバンを抱えて、事務所を出た。
 社用車は使わず、最寄りの駅から電車に乗る。春香がいつも通勤に使っている路線だ。
 春香の地元の駅に着いた俺は、駅前の商店街で見舞いに持って行く品物を買い揃えることにした。
 まずは風邪薬。熱っぽいという話だが、どんな症状かわからないので、どんな症状にでもそれなりに効きそうな総合感冒薬を薬局で購入。
 それからスーパーに行って、食べるものを買うことにする。病気とはいえ、何か口に入れないと元気が出ない。とはいえ、春香の家にも米や卵などといった食品の買い置きはあるだろうから、ネギ一束とイチゴ一パック、プリン、ペットボトル入りのスポーツドリンクを買うにとどめる。
 買い物を終えた俺は、記憶を頼りに春香の家へと急いだ。


 春香の家に到着した俺は、まず深呼吸をして息を整えた。
 初めてではないけど、女の子の家を訪問するのはそれなりに緊張するものだ。
 寝込んでいる春香には申し訳ないなと思いつつ、玄関のチャイムを押す。
 しばらく待っていると、ドアホンから反応があった。
『……はい、どなたですか?』
「俺だ、春香。熱が出てるって聞いて、お見舞いに来たんだ」
『プロデューサーさん……!』
 ガチャリと受話器を置く音がしてから、それほど待たずに玄関のドアが開いた。
 パジャマ姿の春香に、いつもの元気はない。
 それでも、俺を心配させまいとしてのことなのか、笑顔をつくっているのが春香らしいといえば、春香らしかった。
 俺は春香のもとに駆け寄って、ふらふらしている体を支える。
「大丈夫……じゃないよな、春香」
「えへへ、そうですね。ちょっとしんどいです」
「取り敢えず、春香の部屋に行こうか」
「はい……」
 服越しでも明らかに熱っぽいとわかる春香を抱えて、俺は二階へ通じる階段を上がる。
 ドアを開けて、春香の部屋に入り、ベッドに春香を寝かせる。
「よいしょ……っと」
「ごめんなさい、プロデューサーさん」
「いいんだよ」
 そう言って、春香の額に手を当てる。
 俺の額と比べるまでもなく、熱がある。
「体温は計ったのか?」
「38度2分でした」
「結構高いな。飯は食ったのか?」
 そう訊ねた俺に、春香は首を振った。
「朝から何も食べてないのか?」
 そう訊くと、小さく頷く。
「そうか……。薬を飲むにしても、空きっ腹じゃマズいしな。取り敢えず、俺が何か作るよ。簡単なものしか作れないけど。おかゆ……より、雑炊とか、おじやの方がいいか?」
「はい。おかゆは苦手です」
「わかった。それじゃ、台所借りるな」
「はい」
「それまで、飲めそうだったら、これでも飲んでるといい。水分補給は大事だから」
 そう言いつつ、スポーツドリンクのペットボトルの蓋を開けて、春香に渡す。
「じゃあ、ちょっと待ってろよ」
 春香の頭をひと撫でしてから、俺は部屋を出て一階へと下りた。
 台所はきちんと片付けられていて、どこに何があるか迷うことは無さそうだった。
 まず冷蔵庫を開けて、買ってきたイチゴとプリンを放り込み、卵があることを確認。お、液体鰹だしが常備してあるのか。これは使えるな。
 炊飯器は空っぽだった。もしやと思って冷凍庫をチェックすると、ラップに包んだご飯が幾つか入っていたので、それを一つ取り出す。
 調味料や調理器具一式がどこにあるかを確めたら、調理スタートだ。
 まず、冷凍ご飯を電子レンジで解凍。
 それから、小さめの鍋に適量の水を入れ、液体鰹だしを少々加えて、コンロに掛ける。
 その間に、ネギを刻む。
 鍋が煮たってきたところで、醤油と塩で味を調え、解凍したご飯を入れて混ぜ混ぜ。しばらくしてから、卵を割り入れ、刻みネギを惜しみなく加えて、さらに混ぜ混ぜ。
 我ながら適当だと思うが、まぁ、スピード重視なので仕方ない。
「そろそろかな……」
 念のため、味見。
「ん……」
 まぁ、こんなものだろう。変な味じゃないことにホッとして、火を止める。
 鍋にこびりつかないようにかき混ぜながら、食器棚から丼を出して、おじやをよそう。
 後片付けもしなきゃいけないだろうけど、早く春香のところへ持って行こう。
 お盆の上に丼とスプーンと水の入ったコップを載せて、春香の部屋へ向かう。
「ごめん。待たせちゃったな」
 そう言いながらドアを開けると、春香は上半身を起こしてスポーツドリンクをちびちび飲んでいるところだった。
「早かったですね、意外と」
「そうか?」
「いい匂い……。おじや、ですか……?」
「あぁ。卵とネギしか入ってないけどな。でも、味はそこそこまともだと思う。食べられそうか?」
「はい。食べないと、元気、出ませんもんね」
「そうだな」
 と言ってから、俺は部屋の中を見渡した。
 あいにくサイドテーブルなどという便利なものは無い。お盆はベッド脇に置くとして、さて丼はどうしようか?と、俺が思案していると、春香が遠慮がちに声を出した。
「ねぇ、プロデューサーさん……」
「なんだ?」
「よかったら、その……」
「ん?」
「プロデューサーさんに、食べさせてほしいんですけど……」
 それは、つまり、いわゆる『あ〜ん』ってヤツか。
 上目遣いに俺を見つめる春香の瞳は、熱のせいもあってか、若干潤んでいて、何だかドギマギしてしまう。
 恥ずかしいけど、状況が状況でもあるし、仕方がない。と覚悟を決める。
「よし、わかった」
 そう答えると、俺は丼を持ち、スプーンで一口分のおじやを掬った。
 当然、そのまま食べると熱いので、息を吹きかけて冷ます。
 子供の頃、母親がやってくれたのを思い出しながら、ふぅふぅと息を吹く。
 そろそろかなというところで、春香の口元へスプーンを差し出す。
「ほら、あ〜ん」
「あ〜ん」
 やってみると、案外と素直に言えるもんだな――なんて、変な感心をしながら、春香が食べやすいように注意深くスプーンを動かす。
「ん」
「ど、どうだ……?」
 味見したときはまともな味だと思ったが、春香の口にあっただろうか?
 もぐもぐと咀嚼する春香の横顔を覗き込む。
「えへ、おいしいです」
 その返事に、俺はホッと胸を撫で下ろした。
「よかった……。それじゃ、次行くぞ。ほら」
「あ〜ん」
 てなことを延々と繰り返し、ものの数分で丼の中身は空になった。
「お腹減ってたんだな」
「そうですね」
「それじゃ、薬を飲んで、安静にしてなきゃだな」
「はい」
 俺の言葉に素直に頷き、春香は風邪薬を飲んで、ベッドに横たわった。
「プロデューサーさん……」
「どうした?」
「今日、来てくれて、本当に嬉しかったです」
「そうか」
「プロデューサーさんが来てくれるまで、私、一人で家にいて、ずっと寝てたら、なんだかとても寂しくなって。私、このまま死んじゃうのかな、誰にも知られずに死んじゃうのかなって。単なる風邪だってわかってたけど、でも、すごく不安で」
 目尻に涙を浮かべながら話す春香の手を、俺は知らず知らずのうちに握りしめていた。
「そうだったのか」
「でも、プロデューサーさんが、お見舞いに来てくれて。私、一人じゃないんだって。ホッとして、嬉しくて……」
「当たり前だろ。春香のことを放っておいたりするもんか」
「……でも、それって、プロデューサーさんが、プロデューサーさんだからですよね」
「確かに、俺はプロデューサーで、春香はアイドルだ。けど、仕事とか関係無しに、俺は春香のことが大事だから、ここへ駆けつけたんだ」
「プロデューサーさん……」
「熱があるんだし、難しいこと考えてないで、ゆっくり休め。今日は、ずっとここにいてやるから。な?」
「はい……。プロデューサーさん?」
「なんだ?」
「しばらく、こうして手を握っててくれますか?」
「わかった」
 そう返事してやると、春香は心底から安心したという表情を浮かべた。
 その笑顔はあまりに綺麗で、思わず見惚れてしまいそうになるほどだった。
 程なくして、すやすやと寝息を立て始めた春香。その横顔を見つめながら、俺は春香のことをこれっぽっちも理解できていなかったことを、今更ながら思い知らされていた。
 いつも元気いっぱいな姿に惑わされていて、本当の春香がどんな人間なのか、知ろうともしていなかった。歌が好き。お菓子作りが得意。ちょっとドジ。でも、その実は繊細な感性と、年相応の弱さを持った女の子なのだ。
 風邪を引いて弱気になっていた春香。ひとりぼっちで、どんなにか寂しい思いをしただろう。
「……プロデューサーさん……」
「ん? 寝言か……」
「……プロデューサーさん、ずっと……一緒……いてくだ……いね……」
 どんな夢を見てるんだ?
「ずっと一緒にいてやるからな、春香」
 そう声を掛けてやると、春香は寝息を立てたまま、妙に幸せそうな表情を浮かべた。
「ったく……」
 本当に寝てるのかな。狸寝入りじゃないだろうな。
 でも、寝てても可愛いなんて、ずるいよな。
 次に目を覚ましたときには、プリンを出してやろうか。
 そんなことを思いながら、俺は春香のおでこを軽く小突いてみたのだった。


◇ ◇ ◇


「おはようございます、プロデューサーさん」
「おはよう、春香。調子はどうだ?」
「おかげさまで、良好です! まだ、ちょっと体がだるいですけど……」
「一日寝てたし、それに熱で体力を消耗したんだろうな」
「ですかね」
「しっかり食って、体力回復を図らないとな」
「はい」
 ガッツポーズを作りながら台所へ向かう春香を見送って、俺は欠伸を噛み殺した。
 結局、俺は春香の家に泊まり込むことになってしまった。
 春香のために夕食を作っただけでなく、着替えの手伝いまでしてしまった。といっても、着替えをタンスから出して渡してやったり、そのついでに汗を拭くのをちょこっと手伝った程度だけど。
 とはいえ、あのとき見た春香の背中の白さは両目に焼き付いてしまっていて、当分忘れられそうにない。
 いや、それはともかくとしてだ。
 今、俺は春香の家のダイニングで朝食を食べている。
 勝手にご飯を炊いて、味噌汁作ったり、卵焼きを焼いたりしたけど。
 よかったのかな?
 てなことを考えてると、携帯電話が鳴った。

 PiPiPiPi……

「はい」
『あ、プロデューサーさん。今、どちらにいらっしゃいますか?』
 電話の主は、事務員の小鳥さんだった。
「今、春香の家にいてまして――」
『え? 春香ちゃんの?』
「まぁ、何だかんだで一泊することになりまして、ちょっと出社するのが遅れ――」
『えええーっ! 春香ちゃん家にお泊まりって、まさか、そんなっ!! エッチなのはいけませんよ、プロデューサーさん! まだ、春香ちゃんには早すぎますっ!』
「は? 何を訳のわからないこと言ってるんですか。春香の看病のために、傍にいただけですって」
 セミヌードは見てしまったけど、あれは不可抗力なので黙っておく。
『あ、そっか、そうでしたね。あはははは〜〜』
「あはは、じゃないですよ。まったく」
『了解です。それじゃ、ごゆっくりどうぞ。お疲れ様です』
「はい。それじゃ、お疲れ様です」
 そう言ってから、携帯を切る。
 軽い頭痛を覚えながら顔を上げると、春香が不思議そうな顔で見下ろしていた。
「今の電話は?」
「あぁ、小鳥さんから。もう出勤しててもおかしくない時間帯だからな。確認の電話だよ」
「その割には、随分と盛り上がってましたけど……」
「春香の家に泊まったって言ったら、何か勘違いされちゃってさ」
「勘違いって、まさか……」
「たぶん、そのまさかだと思う」
「えぇっ! で、ででででも、私、プロデューサーさんとなら――」
「落ち着けって、春香。興奮すると、熱がぶり返すぞ」
「そ、それは困ります」
「だろ? 取り敢えず、飯を食え。そうしたら、病院に行くからな」
「やっぱり行くんですか?」
「当然だろ。……まぁ、大丈夫だとは思うけど、念のためだよ」
「わかりました」
 と頷いて、春香は俺の向かいの席に腰を下ろし、ご飯を食べ始めた。
「こうしていると、何だか新婚さんみたいですね」
 そんな春香の一言に、俺は飲みかけの味噌汁を吹きそうになる。
「――い、いきなり、何を言い出すんだよ?!」
「えへへへっ。冗談ですよ、冗談!」
「まったく。元気になったと思ったら、これなんだからな」
「むー。でも、昨日は本当に――」
「わかってるよ、春香」
 そう言って、むくれる春香を制する。
「俺がずっと一緒にいてやる。寂しい思いはさせない」
「プロデューサーさん……」
「だから、何も不安に思うことなんてないんだ」
 少し恥ずかしかったけど、俺はそう言い切ってやった。
 すると、春香は潤んだ瞳で俺のことをじっと見つめてから、こう言ってきた。
「プロデューサーさん。今の言葉、約束ですよ」
「もちろんだ」
「絶対ですよ。絶対に約束ですからね!」
「あぁ、約束だ」
 そう言って、俺は春香と小指を絡めた。


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初出:【食べて下さい】天海春香 19個目【手作りの…エヘ】


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