「おはよう、千早ちゃん!」
「おはよう、春香」

 いつもの挨拶を交わして、レッスンスタジオへ向かう。
 ふと、私の前を春香が横切る。その刹那、ほのかな香りが私の鼻先をかすめた。それは春香が使っているシャンプーか、リンスか。洗い髪から微かに漂う芳香は、どこか春を思わせる匂いで、私は思わず足を止めていた。
 なぜだかわからないけれど、胸が高鳴る。
 どうして春香のシャンプーの匂いなんかで、私はドキドキしているのだろう……。

「どうしたの、千早ちゃん?」
「えっ?」

 気付けば、春香が私の顔を心配そうに覗き込んでいた。
 距離が近い。
 またもや春香の心地よい香りが鼻腔をくすぐり、私の心拍数が上がる。
 一体全体、私はどうしてしまったのだろう。
 春香の洗い髪の匂いなんて、初めて嗅ぐわけでもないのに。

「千早ちゃん、何かおかしいよ? 調子が悪いんだったら、無理しちゃダメだよ」
「そんなことないわ。大丈夫よ」
「本当に?」

 そう言うと、春香はそっと前髪をかきあげ、額を合わせてきた。
 触れ合う額と額。
 肌を通して伝わってくる温もりに、私は懐かしい過去を思い出す。
 まだ家族の仲が良かった頃、私が体調を崩すと、こんな風に母は熱がないかどうか確かめてくれたものだ。

「うん。熱は無いみたいだね」

 と、春香が満足げに頷く。
 触れ合っていた額が離れていくことが寂しくて、もっと春香を近くに感じていたくて、無意識のうちに私は春香の手を取っていた。

「千早ちゃん……?」

 戸惑うような春香の声。
 私は何だか申し訳ないことをしてしまったような気がして、手を離そうとした。
 が、それよりも先に、春香が私の手を掴む。

「やっぱり、おかしいよ。今日の千早ちゃん」
「そんなことは……」
「何か悩み事があるなら、言ってよ。私じゃ、何の解決にもならないかもしれないけど、でも、話を聞くくらいならできるから」
「ありがとう、春香」

 だけど、今の正直な気持ちを打ち明けてよいものか、私には判断がつきかねた。
 もし春香に話して、愛想を尽かされたらどうしよう。
 それが怖かった。
 大切な何かを失うのは、もういやだから。けれど――

「千早ちゃんが、そうやって思い詰めた表情をしているのを見るのは、私だって辛いよ。ね、私と千早ちゃんって親友でしょ? 何でも話してくれていいんだよ?」

 その言葉に、私は思い切って打ち明けることにした。自分の気持ちを。

「こんなこと言ったら、春香に嫌われるかもしれないけど……。私、春香の匂いにドキドキしてしまったの」
「え……」
「どうしてだか、自分でもわからなくて。そんな、匂いフェチとかじゃないと思っていたのだけど、でも、春香のことが――ごめんなさい。忘れてちょうだい」
「忘れないよ」
「え……」
「だって……、私だって、千早ちゃんの匂いでドキドキするもん! 千早ちゃんの長い髪が風になびくたびに良い匂いがして、わけもなくドキドキして……。でも、そんなのおかしいって思って、ずっと黙ってたけど」
「春香……」
「だから、私、そんなことで千早ちゃんのこと嫌ったりしないんだからっ」

 そう告げる春香の顔は真っ赤で、瞳は涙で潤んでいた。
 悩んでいたのは、私だけではなかったのだと知った。

「春香!」
「千早ちゃん!」

 どちらからともなく歩み寄り、そしてお互いのことを抱きしめた。
 最初から、こうしていればよかったのかもしれない。
 けれども、そうするには私たちはあまりに不器用で、少しばかり幼すぎたのかもしれない。

「それじゃ、レッスンに行きましょう。急がないと遅刻してしまうわ」
「そうだね。――って、うわ、あっ!」

 春香が足を滑らせて転び、それに私も巻き込まれて――


 どんがらがっしゃーん


 ハッと気が付くと、私は事務所のソファーから転がり落ちていた。
 今のは、夢?
 あぁ、何という夢だったのだろう。
 私と春香が……くっ。幾ら何でも、ふしだらだわ。

「大丈夫、千早ちゃん?」

 心配そうな表情で、私に手を差し伸べてくれる春香。

「大丈夫よ。ちょっと変な夢を見ていただけ」
「よかった。何だかうなされているみたいだったから、心配だったんだ」

 そう言って微笑む春香の手を支えに起き上がる。その刹那、ほのかな香りが私の鼻先をかすめた。それは春香が使っているシャンプーか、リンスか。洗い髪から微かに漂う芳香は、どこか春を思わせる匂いで、私はわけもなく胸を高鳴らせていた……。


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初出:【想いを込めて】如月千早 23【バレンタイン】


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