「よし。今日のレッスンはここまでにしよう。俺はちょっと用事があるから、二人とも先に上がってていいよ」
 そう言うと、プロデューサーはレッスンスタジオのドアを開けて出ていった。
「どうする、千早ちゃん?」
「帰りましょう、春香。もう遅いし」
「うわ、本当だ……」
 壁の時計を見て、春香が眉をひそめる
 私と春香は荷物をまとめて更衣室へ向かうと、急いで着替えを済ませて、事務所を出た。
「あ……」
 少し歩いたところで、私は忘れ物をしたことに気がついた。
「どうしたの?」
「携帯、忘れてきちゃった……。事務所に取りに戻るから、春香は先に帰ってて。でないと、電車に遅れちゃうでしょ?」
「わかった。千早ちゃんも気をつけてね!」
「春香もね。それじゃ、また明日」
「また明日」
 春香に手を振って、私は事務所へと駆け戻った。
 携帯電話は、更衣室のロッカーの中に落ちていた。
 コートのポケットから滑り落ちたのだろうか。
 私は拾い上げた携帯電話を開き、どこにも問題がないことを確かめてから、更衣室を出た。
 事務所の前を通り掛かったとき、不意にプロデューサーの話し声が聞こえてきて、私はふと足を止めた。

「春香と千早のユニットのことで――」

 どうやら話し相手は社長らしい。小さく開いたドア越しで、声も小さく、しかも途切れ途切れにしか聞き取れないが、私と春香のユニットについての話のようだった。

「――ユニットとしての活動を一旦休止して――」

 え……?!

「――デュオとして活動していれば――ある程度抑えなければならんからな」
「――ソロだからこそできる仕事もあるはずで――」

 ソロ活動?
 春香とのユニットは解散させられてしまうのだろうか?

「――別のプロデューサーに担当してほしいんです」
「では、君はプロデュースを降りるのかね」
「はい。千早のプロデュースはとても大変な――――荷が重すぎます」

 その瞬間、私は目の前が真っ暗になったような衝撃を覚えた。
 周りの音が聞こえず、自分がどこにいるのかもよくわからなかった。
 気がつけば、私は事務所を飛び出し、夜道を走っていた。
 途中で誰かとぶつかりそうになった気がしたけれど、よくわからなかった。
 それどころではなかった。
 プロデューサーを信じていたのに。
 この人とならば、より高みを目指せると、そう思っていたのに。
 結局は、私は単なる仕事上の相手でしかなくて、簡単に切り捨てられてしまうのか。
 私の居場所なんて、どこにもないのか。
 そう思うと、ただ悲しくて、涙が溢れて止まらなかった。
 走り疲れて立ち止まると、目の前に公園があった。
 夜の公園には、誰もいなかった。
 それが、今の私にはお似合いだと思った。
 ふらふらと足を踏み入れ、ブランコに腰掛ける。
 一時の熱情が冷めると、今度はどういう顔をしてプロデューサーに会えばいいのかわからなくなり、私は途方に暮れた。
 春香みたいに可愛い女の子と、私みたいな可愛げのない女の子となら、それは春香をプロデュースしたほうがいいに決まってる。
 歌にこだわり続ける、偏屈な私なんて……。くっ……。
 吐く息が白い。
 夜の空気は冷え切り、風は身を切る刃のように感じられる。
 こんなところにずっといれば、死んでしまうかも。
 でも、それでもいいのかもしれない。
 そんな自暴自棄な気持ちになって、私はゆっくりとブランコを揺らした。


 それから、どれくらい経っただろうか。
 ふと人の声が聞こえたような気がして、私はブランコをこぐのを止めた。
 キィキィと金属の軋む音が邪魔だったから。

「ちはやーっ」

 そう聞こえた気がした。
 誰も探しに来てくれるわけがないのに。
 やれやれ、まだプロデューサーへの未練が捨て切れていないのか。
 私は自嘲し、視線を落とした。

「千早ーっ!」

 さっき聞こえたのと同じ声が、より明瞭に聞こえた。
 音源が近付いているのは間違いなく、そしてそれはプロデューサーの声のようだった。
 ここです、プロデューサー!と叫びたい気持ちを押し殺し、唇を噛む。

「千早っ、無事か!?」

 すぐ近くで声がしているのはわかっていたけれど、私は顔を上げなかった。
 どうせ捨てられるのだから。
 だけど、涙が止まらなかった。
 どうして?
 こんな風に居場所を失うのは、初めてではない筈なのに……。

「寒かっただろ、千早」
 そう言って、プロデューサーが私を抱きしめてくれた。
 お互いに厚手のコートを着ているのだから、人肌の温もりが伝わってくるわけもない。けれど、心のどこかで彼の温かさを求めている自分に気づき、そして、そんな自分を嫌悪した。
「もう、私はプロデュースしてもらえないんですよね。わがままばかり言って、プロデューサーに負担ばかり掛けて。そんな女の子はいらないですもんね」
 気がつけば、そんなことを口走っていた。
 ただ傷つけるだけの言葉しか言えない自分が、心底イヤだった。
「何だ、それ?」
 プロデューサーはそう言うと、首を傾げた。
「社長とのお話を聞いてしまったんです。ユニットを解消して、春香がソロ活動に入るのでしょう?」
「それはそうだけど。何か勘違いしてないか?」
「……勘違い?」
「あぁ。確かに、千早と春香のユニットは一旦活動を休止させる。そして、それぞれがソロ活動をスタートさせる」
「……それぞれが?」
「そうだよ。千早と春香、それぞれがソロ活動をする。その間、俺は千早のプロデュースに専念するつもりだ。だから、春香のプロデュースは他の人に担当してもらってほしいとは言ったけど……」
「……そう、だったんですか」
 ホッとした瞬間、私の体から力が抜けた。
「お、おい。大丈夫か、千早?」
「まだプロデューサーと一緒にお仕事できるってわかって、ホッとしました」
「何だよ……。もしかして、俺が千早を見捨てるとでも思ってたのか」
「すみません、プロデューサー……。荷が重すぎるって聞こえたので、てっきり……」
「それは、千早と春香のソロを同時にやるのはキツいっていう意味であってだな。そりゃまぁ、確かに千早のプロデュースは大変だけどな。でも、それは人気が高くて、仕事量が多いからであって、別に千早の性格に不満を思ったことはないよ」
「本当ですか?」
「本当だよ。それに言っただろ?」
「何がですか」
「千早が千早でいられる場所、作ろうって」
「覚えていてくださったんですね……」
「忘れるもんか。見損なうなよ」
「すみません、プロデューサー……」
「あぁ、もう泣くな」
「だって……」
「いい加減に泣きやまないと、チューしちまうぞ」
「……してください」
「は……?」
「キス、してください」
 そう言い返すと、プロデューサーは途端に狼狽しはじめた。
「ちょ、あの、千早?」
 まさか私がそんな切り返しをしてくるとは思ってもみなかったのだろう。
「プロデューサーがキスしてくれたら、泣きやみます。きっと」
 そう言い募ると、プロデューサーは進退窮まれりといった表情で私を見つめた。
「あのなぁ、千早」
「そうですよね。冗談ですよね。私みたいな小娘なんかとはキスできませんよね。わかってます。私が魅力的ではないってことくら――」
「そんなことはないっ!」
「じゃあ、証明してください!」
「……本当にいいんだな? 後悔しないな? あとで、セクハラで訴えるとか無しだからな」
「そんなことしませんよ」
「……わかった」
 そう言うと同時に、プロデューサーの顔が近付いてくる。
 私は思わず目を閉じた。
 程なくして唇に伝わる感触。それは、ちょっとカサカサしてて、冷たくて、およそロマンチックな雰囲気とはかけ離れていたけれど、でも嬉しかった。
 プロデューサーに、一人の女として見てもらえたような気がしたから。


 プロデューサーと並んで夜道を歩く。
 手を繋いで、他愛もない言葉を交わす。
 それだけのことが、こんなにも楽しい。
「ありがとうございます、プロデューサー」
「何だよ、藪から棒に」
「いえ、何となく御礼を言いたくなったんです」
「ふぅん……」
「頑張りましょうね、プロデューサー」
「あぁ、そうだな」と応えるプロデューサーの手に力がこもる。
「頑張ろう、千早」
「はい……」
 夜空を見上げ、まだ見ぬネクストステージに思いを馳せる。
 そうして、ただ静かに冬の夜は更けていくのだった。


おまけ1:プロデューサーと社長との会話
おまけ2:後日談


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初出:【貴方が開く】如月千早22【心の扉】


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