「――というわけで、765プロダクションにとって更なる飛躍の年とすべく、プロデューサー並びにアイドル諸君、そしてスタッフ一同の奮起を期待したいと思う。勿論、そのためにはこの私も支援を惜しまないつもりだ。諸君、今年もよい一年にしようじゃないか! ……では、新年の幕開けを祝して、乾杯!」
「乾杯っ!」
「乾杯〜!」
 高木社長の年頭の挨拶が終わるのを待ちかねていたように、事務所に集まった765プロダクション職員一同は手にしていたグラスを掲げた。
 といっても、グラスの中身は必ずしもお酒とは限らない。
 何しろ所属アイドルの大半は未成年だし、営業などで車を運転する予定のある者はアルコール類は口にできない。
 そうした配慮もあって、グラスの中身は日本酒だったり、ビールだったり、ジュースだったり、烏龍茶だったりと、実に様々だ。
 今日は、一月四日。仕事始めの日だ。
 まだ学校は冬休みということもあり、所属アイドル全員とその担当プロデューサーが揃い踏みして、会議室はいつにない賑わいを見せていた。
 俺は烏龍茶を飲みながら、椅子に腰を下ろして一息つく。
 思えば、昨年は本当に大変な一年だった。765プロに入社し、アイドルのプロデュースを任された。右も左もわからない状況で、先輩プロデューサーや社長、あるいは事務員の音無小鳥さんのアドバイスを受けつつ、どうにかこうにか仕事をこなしてきた。
 ようやく周りが見えてきて、これからのプロデュースの方向性も見えてきつつある。今年は、色んなことにチャレンジしたいな――。
 そんなことを考えていると、担当アイドルの如月千早がそっと会議室を抜け出すのが見えた。
「あいつ……」
 相変わらずな千早のマイペースぶりに、俺は苦笑せざるを得なかった。
 彼女の行く先の見当は付いている。今日は仕事の予定も無いし、好きにさせておいてもいいのかもしれない。
 だけど、俺は千早を一人で放っておく気分にはなれなかった。
 俺が千早のプロデュースを担当しているから――でもあるが、それ以上に大きな別の理由があった。
 烏龍茶を飲み干し、空になったグラスをテーブルに置くと、俺は賑やかな会議室を後にした。
 エレベーターで一階に下りて、レコーディングスタジオを兼ねたレッスンスタジオへ向かう。
 予想通り、出入り口の脇には『使用中』を示すランプが点灯していた。
 そっと窓から様子を窺うと、キンギョバチと呼ばれるブースの中にヘッドホンを被った千早の姿が見えた。おそらく歌を歌っているんだろう。
 ドアノブに手を掛けると、鍵は掛かっていなかった。
 俺は物音を立てないように注意深くドアを開け、レッスンスタジオの中に足を踏み入れた。後ろ手でドアを閉め、再度ブースの中を覗く。
 千早はこちらに背を向けている。
 リズムを取るように揺れる背中を眺めながら、俺はスタジオ備え付けのヘッドホンを被って、ジャックをコンソールの出力端子に差し込んだ。その途端、耳元のスピーカーからから千早の歌が流れてきた。
 その澄み切った歌声に、俺はプロデューサーという立場を忘れて、聴き入った。
 もともと歌唱力に関して言えば、千早は明らかに抜きん出たものを持っていた。そもそも俺が千早をプロデュースしようと決めたのも、そのボーカルに惹かれたからだったわけで。
 けれど、千早は自らに満足していなかった。
 常に上を目指していた。
 オフの日でも時間があれば事務所にやってきて、一人でスタジオに籠もって、今日のように自主レッスンをしていた。体力をつけるためのトレーニングも怠らなかった。
 そうした弛まぬ努力の積み重ねによって、千早の歌唱力はデビュー当時のそれから比べて格段に磨きが掛かったものになっていた。
「さすがだな」
 俺は思わず呟いていた。
 歌の世界に引き込まれてしまいそうになる。そんなボーカル。
 十五歳とは、とても思えない。
 この才能を潰すことなく、大きく伸ばし、育ててゆく。
 それが自分の仕事だと気付いて、俺は体が震えた。

 歌が終わり、千早がヘッドホンを外す。
 俺は立ち上がり、拍手を送った。
 防音ガラス窓越しでは、ブースの中にいる千早には聞こえない。それはわかっている。けれども、拍手をしないではいられない。そんな気分だった。
 と、偶然にもこちらを振り返った千早と目が合った。
 俺の姿を認めて目を丸くしたかと思うと、千早が慌ててブースから飛び出してきた。
「プロデューサー! いつからいらっしゃったんですか!?」
「ん、ちょっと前かな」
「いらっしゃったのなら、声を掛けてくださればよかったのに」
「でも、歌っている最中だったからさ。邪魔するのも悪いと思ったし。それに、千早の歌を聴いていたかったから」
「え、え〜と、その、ありがとうございます。で、いいんでしょうか? この場合……」
「いいんじゃないかな? むしろ、俺の方がお礼を言わなきゃいけないような気もするけど。でもまぁ、これが千早にとっては『歌い初め』ってことになるのかな」
「そうですね。こんなに整った設備を自由に使うことができて、本当に幸せだと思います。家だと音楽を聴くことには困りませんけど、こうして声を出して歌うのは何かと支障がありますから」
「確かになぁ。防音設備を備えた部屋なんて、普通の家には無いし。幾ら千早の歌が上手いといっても、大声で歌うわけにはいかないよな」
「はい。ですから、今日が待ち遠しかったんです」
「変わった奴だな。普通は、もっと休んでいたいというものじゃないのか?」
「……プロデューサー。両親のことは、お話ししましたっけ」
「あぁ、そういえば――。そうか、ごめん。配慮が足りなかったな……」
「いえ、いいんです」
 そう言うと、千早は唇を噛んで俯いた。
 千早の両親は数年前から仲が悪く、喧嘩が絶えない。そういう打ち明け話を聞いたことを思いだし、俺は何とも申し訳ない気分でいっぱいになった。
 おそらくは、正月休みの間も千早は家で居心地の悪い思いをしていたのだろう。そんなことにも気付かず、年始早々から担当アイドルに嫌な思いをさせるなど、言語道断にも程がある。
 少しでもフォローしなければと思って、俺は口を開いた。
「なぁ、千早」
「何でしょうか?」
「その、なんだ。家にいても落ち着かないなら、いつでも事務所に来ていいんだからな。事務所が休みの日には、俺ん家に遊びに来たっていい。あいにく歌が歌えるような防音設備は無いけど、話を聞いてやるくらいのことはできるからさ」
「ありがとうございます。気を遣ってくださるだけで、嬉しいです」
 そう言って一生懸命に笑顔をつくろうとする姿があまりにも痛々しくて、俺は思わず千早を抱きしめていた。
「プロデューサー……?!」
「無理して、笑わなくていいんだからな」
 俺がそう言うと、千早が息を呑む気配がした。
「お客さんの前では、プライベートでどんなに辛いことがあっても笑顔でいなくちゃいけない。だけど、俺の前ではそんな無理はしなくていいんだ。辛いことがあれば、泣いていい。嫌なことがあれば、愚痴っていい。わかったな?」
「ありがとう……ございます……」
 そう応えた千早の肩が小刻みに震え、口から嗚咽が漏れる。
「くっ……」
「我慢するな、千早」
 俺はそれだけを言うのがやっとだった。
 千早がどれだけのものを胸の中に抱えているのか。俺には想像することしかできない。
 気休めなら、幾らでも言える。けど、千早にとって必要なものが、そんな安っぽい慰めとか励ましではないことくらいは、俺にだってわかる。
 今の俺が、千早にとって頼ったり甘えたりするのに十分でないのなら、もっと千早に頼ってもらえるようにならなきゃいけない。
 俺はそう心に決めて、千早の震える肩を抱く腕にほんの少しだけ力を込めた。

 半時ほど、そうして俺は千早を抱きしめたまま突っ立っていた。
「ありがとうございました……」
 そう言いながら千早が顔を上げたときには、俺のシャツの胸元は千早の涙(と、たぶん鼻水)で、ぐっしょりと濡れてしまっていた。
「す、すみません、プロデューサー」
 申し訳なさそうに謝る千早だったが、俺は何だか嬉しかった。
「いいんだ、千早」
「でも……」
「気にすることないよ。だって、泣いていいって言ったのは、俺だしな。それに……」
「それに?」
「この涙のおかげで、千早との距離が縮まったような気がするから」
 ちょっと気取って言ってみたら、ジト目で俺を見ながら千早がポツリと呟いた。
「……そんなこと言って、恥ずかしくないのですか?」
「恥ずかしい」
 そう答えてやると、千早は吹きだした。
「ぷっ、くふふ……」
「何だよ」
「だって、真顔で『恥ずかしい』って答えるとは思わなかったので」
「恥ずかしいもんは恥ずかしいんだよ。でも、それが本心だし、俺は千早の力になりたいと思ってるから。千早から見たら、俺はまだまだ頼りないプロデューサーかもしれないけどさ、千早が好きな歌を歌い続けられるように、そのために一生懸命がんばるから」
 そこまで一気呵成に捲し立てて、俺は千早の顔を覗き込んだ。
 千早は一瞬呆気に取られたような顔をしていたが、目尻に残っていた涙を拭うと、見ているこちらがハッとするような笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、プロデューサー。こんな私ですけど、色々とご迷惑をお掛けするかもしれませんけど、今年もよろしくお願いしますね」
「あぁ。こちらこそ、よろしくな」
 そう言って、俺と千早は握手を交わす。
「いい年にしような、千早」
「はいっ」
 元気よく応えてくれた千早の笑顔が眩しくて、俺は思わず目を細めていた。
 リリースした歌がヒットすることも、ファンの数が増えることも大事だけれど、いつまでも千早が明るく笑っていられるようにすることも、きっとプロデューサーとして忘れてはいけない大切な仕事なんだろうな。
 そんなことを思いながら、俺は新しい一年の始まりを迎えたのだった。


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初出:【今夜私は】如月千早21【あなたのものよ】


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