12月のある日。事務所の屋上で、私はプロデューサーに問い質していた。
「こんなところで、いったい何をするつもりなのですか?」
 年末という一年でも特に慌ただしい時期にできた貴重な空き時間なのだから、それを少しでもレッスンに充てたい。にもかかわらず、プロデューサーは私を何もない屋上へ呼びだして、どういうつもりなのか。なぜ、貴重な時間を無為に過ごさなくてはいけないのか。
 自分の中で消化できない色んな気持ちが入り交じった末に、私はとげとげしい言葉をプロデューサーにぶつけていた。
「私たちに、屋上でぼんやりと過ごす時間など無いはずです。そんな時間があるのなら、少しでもレッスンに励んで、技量を高めるために使うべきです」
「ま、千早の言うことも一理ある」
 そう答えつつも、プロデューサーは屋上の手すりにもたれかかり、その視線は空を流れる雲へと向けられている。
 本当に、私の話を聞いているのだろうか?
「これ以上、用がないのでしたら、失礼いたします。折角の空き時間を有効活用したいので」
 叩きつけるようにそう言って、私は踵を返した。いや、返そうとした。
 しかし、そんな私を呼び止めて、プロデューサーは言った。
「まぁ、待てよ、千早。確かに、空き時間の有効活用は重要だ。しかし、それは果たしてレッスンスタジオに籠もることでしか得られないものだろうか?」
「……どういう意味でしょうか?」
「つまりだ。こうして、冬の空を眺めながら、ぼんやりとする。あるいは、物思いに耽る。そんな時間も必要なんじゃないかな」
「ですが、私は歌以外のことに時間を割くことに対して、正直言って、価値を見出せません」
「ふむ……」
「よって、プロデューサーのお言葉には賛同いたしかねます」
「ハッキリ言ってくれるじゃないか……。よし。そういうことなら、ひとつ勝負をしないか?」
「……勝負、ですか?」
「あぁ。もし千早が勝てば、これから先の一週間は、千早の好きな時間に好きなだけレッスンを組んで、ビシバシ指導してやる。もし千早が負けたら、今日と明日はレッスン禁止で、ゆったりのんびりと事務所で過ごすこと」
 魅力的な条件ではあるけれど、肝心な勝負の内容がわからないと、迂闊には乗れない。
「どんな勝負なのですか?」
「歌だ。……といっても、歌合戦じゃないぞ。俺の歌じゃ、千早に敵いっこないからな。歌うのは千早だけ。この屋上で歌を一曲歌う。そうだな、この季節にマッチした曲がいいだろう。で、その歌に足を止めて、聴き入ってくれる人が五人以上現れたら、千早の勝ちだ。幸いにもと言うべきか、事務所前の人通りはそれなりにある。……さて、どうする?」
 プロデューサーの挑戦的な表情に、私の中の負けん気が頭をもたげる。
 ここで引き下がるのは、いかにも癪だ。
「わかりました。その勝負、受けましょう!」
「そう来なくちゃな。何を歌うかは、千早に任せるよ。ただし、765プロのアイドルの持ち歌はNGだからな」
 そう付け加えると、プロデューサーは屋上に置いてあるベンチに腰を下ろした。
「さぁ、どうぞ」
 プロデューサーの声に促され、私は屋上の端まで歩いていく。
 ここからなら、下の道路を歩く人にも歌が届くだろう。
 さて何を歌おうか……と思案していると、私の中に眠っていた悪戯心がふと顔を上げた。
 どうせなら、プロデューサーに聴かせたことのない歌がいい。
 そう思い付いてしまった。
 日本で、年末――特に大晦日と言えば、忠臣蔵ともう一つ。そう、ベートーベンの第九だ。特に、第四楽章の歓喜の歌は有名だ。これを歌おう。
 だけど、しばらく歌っていなかったから、うまく歌えるだろうか。少し不安もあるけれど、ここはチャレンジすべきところだと思った。
 息を整えながら、小さな声で音程を確かめ、そして私は思い切って歌い出した――


 Freude, schöner Götterfunken,
 Tochter aus Elysium,
 Wir betreten feuertrunken,
 Himmlische, dein Heiligtum!
   :
   :


 開放的な場所で歌うのは、存外に気持ちが良かった。音響のことなど考えず、心の赴くままに声を出して、ただ歌う。思えば、久しく忘れていた感覚だった。
 さすがに、独語の歌詞全てを暗記してはいないので、よく知られている箇所を二度繰り返してから、学校で教わった日本語歌詞へとつなげて、締めることにした。
 清々しい気持ちで歌い終えて、ちらりと下を覗くと、何人かの人がこちらを見上げていた。五人以上いたかどうかは、わからなかった。
 しかし、まぁ、頭上からいきなり第九が聞こえてきたら、何事かと思うかもしれない。ビルの管理事務所に苦情が入ってなければいいけど、と思いながら振り返り、私はプロデューサーに向かって一礼した。
 そして、顔を上げて、私はびっくりした。
 プロデューサーが泣いていたから。
「あの、プロデューサー……?」
「すまん。みっともないところ、見せちゃったな」
 そう言って、プロデューサーは手の甲で涙を拭った。
「素晴らしかったよ、千早」
「あ、ありがとうございます」
「どうだ、千早? 胸につかえてたものは、どこかへ飛んでいったか?」
「え……?」
「ここのところ、歌以外の仕事も色々とあって、レッスンの時間が十分に取れなくて、オーディションの成績も安定してなかったろ? 千早がイライラしてるのはわかってたんだけど、そのストレスを解消する機会をなかなか作ってあげられなくてさ。それに、俺が力不足なせいで、どうやれば千早のストレス解消になるのかもよくわからなくて。本当に申し訳ないと思ってる」
 そう言って、プロデューサーは深々と頭を下げた。
 私は面食らって、言葉が出てこなかった。
「それで色々と考えたんだけど、結局こんなのしか思い浮かばなかったんだ。スタジオで歌うのもいいけど、こうして空の下で歌うと、また違った感覚があるかなって。気分転換にならないかなって思ってね」
「それで、わざわざ……?」
 そう訊ねたが、プロデューサーはただ苦笑しただけだった。
「ありがとうございます、プロデューサー。おかげさまで、気が晴れました」
「それは、よかった。……それじゃ、気が晴れたついでに、観客に挨拶をしないとな」
「はい?」
「こっちにおいで、千早」
 プロデューサーに手招かれるままに手すりの傍へ歩み寄り、促されるままに下を覗く。
 と、事務所のビルの前に、ちょっとした人だかりができていた。
「さっきの千早の歌で集まってきたんだ。手でも振ってあげるといい」
「は、はい……」
 私はおそるおそる手を振ってみた。
 そうすると、幾人かの人たちが手を振り返してくれた。拍手もあった。
 通りすがりの人たちの反応に、胸が熱くなる。
 ダイレクトに自分の歌に反応が返ってくることが、こんなにも嬉しいことだったなんて。
「レッスンを積み重ねて技量の向上を図ることは重要だ。けれど、千早の歌には今でも十分に人の心を震わせる力がある。そのことを知っておいてほしいんだ」
「プロデューサー……」
「さて、勝負は見事に千早の勝ちだったな」
「ということは」
「明日から一週間、みっちりとレッスンプログラムを組んでやる。歌だけでなく、ダンスや表現力のレッスンも入れるからな。覚悟しろよ、千早。レッスンがキツいとか言って、逃げるんじゃないぞ」
「むしろ望むところですよ、プロデューサー。どんな厳しいレッスンだろうと、全てやりこなしてみせます」
「その意気だ。さて、それでは早速、レッスンプログラムについてのミーティングを始めようか」
「わかりました」
 プロデューサーに続いて階段を下りながら、それまで興味の持てなかったトップアイドルの座を目指してもいいかもしれない、という気分になっていた。
 そんな気持ちになっている自分に少し驚きつつ、私は久々にしっかりとレッスンができることの喜びを感じていた。
 それも、プロデューサーのおかげなんだなと思うと、素直に感謝の気持ちが湧いてくる。
「ありがとうございます、プロデューサー」
 相手には聞こえない小さな声で、そっと呟いてみる。
 いつの日か、この感謝の気持ちをちゃんとした形で返すことのできる日が来ればいいな。
 そんなことを思いながら、私はプロデューサーと共に会議室のドアをくぐった。


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初出:【今夜私は】如月千早21【あなたのものよ】


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