「よし、今日のレッスンはこれくらいにしよう」
 プロデューサーのかけ声に、私はヘッドホンを外した。
 思えば、以前に比べてプロデューサーの指示に素直に従うようになってきた。半年くらい前の私なら、もっと練習させろとか言ってゴネていたに違いない。
 私の態度が変わったのは、プロデューサーの人となりが見えてきて、信頼できる人だということがわかったからだと思う。この人となら、より高みを目指すことができる。そう思えるからこそ、下される指示を受け容れることができるのだ。
 しかし、改めて過去の自分を省みてみると、デビュー前後の頃のプロデューサーは私の扱いに苦労していたに違いなく、何だか申し訳ないような気がしないでもない。
「お疲れ様でした、プロデューサー」
「千早こそ、お疲れ様」
「では、お先に失礼します」
「うん。それじゃ、また明日な」
「はい」
 これで私とプロデューサーの会話は終わりになるはずだった。
 ところが、今日は違った。
 レッスンスタジオを出ようとした私を、プロデューサーが呼び止める。
「……あ、そうだ。千早、ちょっといいかな」
「何でしょうか?」
「週末はオフだったよな」
「えぇ、そうですが?」
 私のスケジュールを調整しているのは、プロデューサーではないか。
 今更、何を言い出すのだろう?
 不審そうに首を傾げてみせた私に、プロデューサーは少し苦笑したようだった。
「いや、もちろん千早のスケジュールは把握しているよ。ちょっと、オフに時間を取れないかと思ってね。無理にとは言わないけどさ」
「……今のところ、取り立てて用事はありませんけれど」
「そうか。じゃあ、土曜の午後は空いてるかな? 午後というか、ほとんど夜なんだけど」
「はい、空いていますが」
「それじゃ、ミュージカルを観に行かないか?」
「え?」
 思いも掛けない申し出に、私は虚を突かれて口籠もる。
「この間、取引先からチケットをもらったんだ。二枚あるから、もしよかったら、千早も一緒にどうかなと思ってさ。ほら、いろいろと学ぶところもあるだろうし。どうかな?」
 確かに、得るものは少なくないだろう。
 少し前までは歌さえしっかりしていればいいと考えていたけれど、最近では単に歌が上手いだけでは通用しないことが見えてきた。たかがアイドル、されどアイドル。幅広い表現力が要求される時代なのだ。その意味でも、ミュージカルを観ることはよい勉強になるはず。
 プロデューサーの配慮に感謝し、私は首肯した。
「はい。是非お供させてください」
「ははっ。そんな堅く考えなくていいよ。オフなんだし、リラックスしていこうじゃないか」
「わかりました。それでは、今日はこれで」
「おう。引き止めて悪かったね。お疲れ様、千早」


◇ ◇ ◇


 翌日。事務所の休憩室でコーヒーを飲んでいると、春香が隣にやってきた。
「ねぇねぇ、千早ちゃん。クッキー焼いてきたから、お茶請けにどう?」
「ありがとう、いただくわ」
 春香お手製クッキーをひとつ摘む。
 ほのかにバターの香りがして、甘さもしつこくなくて、とてもバランスよい味だ。
「美味しい……。春香、また腕を上げたわね」
「えへへへっ。千早ちゃんに褒めてもらえると嬉しいな♪」
「ところで、何か用があったんじゃないの?」
「うん。実はね、今週の土曜日に事務所の女の子同士で集まって、ケーキバイキングに行こうって話が出てるの。今のところ、雪歩と真と美希は参加するって。他の子にも声かけるつもりだけど、千早ちゃんも一緒にどう?」
「ごめんね、春香。誘ってもらって嬉しいんだけど、その日はプロデューサーとの約束があるから」
「なんだぁ、残念。……ところで」
 と、春香が声を潜めて顔を近づけてくる。
「千早ちゃんって、プロデューサーさんと付き合ってるの?」
「!!」
 私は思わず飲みかけのコーヒーを噴き出しそうになる。
「――い、いきなり何を言い出すのよ、春香っ!」
「千早ちゃん、声が大きいって」
「ご、ごめんなさい……」
「……で、どうなの? ん?」
「そ、そんなわけないじゃない。私とプロデューサーとは、その、付き合ってなんかいないわよ。プロデューサーだって、私みたいな小娘より、きっと落ち着いた大人の女性の方がいいに決まってるわ」
「そうかなぁ。落ち着いているという点では、千早ちゃんも十分すぎるくらい落ち着いてると思うけどな……。それに、千早ちゃんのプロデューサーさんって、何だかんだと千早ちゃんのことを気遣ってるから、てっきり付き合ってるのかとばかり。そうか、違ったのかぁ。あ〜あ、残念……」
 どうして、そこで『残念』なのよ……と突っ込みそうになるが、何となく藪蛇になりそう気がして、口を噤む。
「ま、いいか。それじゃね〜♪」
 明るく手を振って休憩室を出て行く春香を見送って、私は一人そっと溜息をつく。
 私とプロデューサーって、周りからどう見られているのだろうか。春香が言うように、付き合っているように見えているのだろうか。
 確かに、プロデューサーの気遣いは折に触れて感じることではある。けれど、それは私がプロデューサーの担当アイドルだからであって、それ以上でもそれ以下でもないはず。
 私はそう結論づけると、カップの中に残っていたコーヒーを飲み干して、休憩室を後にした。


◇ ◇ ◇


「どうだった、千早?」
「素晴らしかったです。音楽も、演技も、全てが」
「それに、ステージセットも凄かった。あのクライマックスシーンの大仕掛けは圧巻だったよな」
「はい。まさに、息を呑むという感じで――」
 観劇を終えた私とプロデューサーは、さっき観たばかりのミュージカルの感想を話し合いながら、劇場を出た。
 二時間半ほどの上演時間だったはずだけれど、そんな長さを全く感じさせない濃密な時間だった。
 胸に手を当ててみると、まだ少しドキドキしている。
「プロデューサー」
「ん?」
「今日は、ありがとうございました。こんな素敵な体験ができて、感謝しています」
「どういたしまして。といっても、俺は何も大したことはしてないけどな。感謝するなら、俺じゃなくて、ペアチケットをくれた取引先の人に感謝しないと。今度会ったときに御礼を言わなきゃだな」
「そうですね。……でも、どうして私だったんですか?」
「は?」
「あの、その、私じゃなくても、別に他の人を誘ってもよかったわけですよね?」
 そこまで口に出してしまってから、何てことを言ってしまったのだろうと思ったけれど、もう遅い。せっかくプロデューサーの好意で誘ってもらったのに。私の不用意な一言で、和やかな雰囲気を台無しにしてしまったに違いない。きっと、プロデューサーも不機嫌になっているはず。
「なんだ、そんなことを気にしてたのか?」
 ほら、呆れて――え?
 私が顔を上げると、プロデューサーは笑っていた。
「千早は自分を高めることに貪欲だからな。色々なものを見せてやりたい、体験させてやりたい。そう思うのは、プロデューサーとして当然のことだろ?」
 そう言うと、プロデューサーは頭を掻いた。その笑顔は少し照れくさそうでもあった。
「それに、付き合ってる恋人もいないしな。だから、まぁ、チケットもらったときに、誘う相手が千早しか思い浮かばなかったというのもあるけどな。……あ。そういうことは、本人の前で言うことじゃないよな。すまん」
「いえ……」
 こちらが訊いてもいないことまで自分から暴露してしまうプロデューサーのことが、何だかかわいく思えるなんて。私も変わったなと思う。
「……そう言えば、この間、春香が面白いことを言ってました」
「春香が?」
「私とプロデューサーが付き合ってるんじゃないか、って。そんな風に見えてたみたいで」
「ええっ!?」
「私は違うって言ったんですけど――。どうしたんですか? 難しい顔して……」
「いや、この間、俺も同じようなことを小鳥さんに言われたんだよ」
「音無さんに、ですか?」
「あぁ。いつから千早ちゃんと付き合ってるんですか、ってな。……俺たちって、周りからどういう風に見られてるんだろうな。春香や小鳥さんだけが例外って思っていいのかな」
 そんなプロデューサーの呟きに、私は思わず笑ってしまった。
「なんで、そこで笑うんだよ」
「だって、私も同じようなことを考えてましたから」
「そういうことか。でも、千早には不快な思いをさせちゃったな。俺なんかと付き合ってるなんて言われちゃ、心外だろ?」
 デビューしたばかりの頃に同じことを言われていたら、即座に肯定したかもしれない。
 けれど、今なら――
「そうでもないです」
「え……?」
「プロデューサーが相手なら、そういう風に誤解されてもいいかなって思ったり。いえ、あの、その、すみませんっ! プロデューサーこそ、お嫌ですよね。私みたいな小娘なんか――」
「そ、そんなことないぞ」
「やっぱり――え?」
「千早は十分に魅力的だ。もっと自信を持っていいんだ。俺も、その、なんだ、千早と恋仲じゃないかと疑われて、ちょっと嬉しかったりしたけど。でも、やっぱりプロデューサーとアイドルというのは、節度を持った付き合いというのが必要であってだな」
 顔を真っ赤にしながらそんな真面目くさったことを言うプロデューサーが可笑しくて、私は笑いを堪えきれずに吹きだしてしまった。
「ぷ、くふ、あははははっ」
「何だよ……。そんなに笑うこと無いだろ、千早」
 憮然とするプロデューサーに、私は目尻の涙を拭って向き合う。
「すみません、プロデューサー。だけど、おかしくて」
「まぁ、いいけどさ。……ところで、そろそろお腹空かないか?」
「そうですね」
「じゃあ、飯、食いに行こうか。せっかくここまで出てきたんだし、何か美味いものを食べて帰ろう」
「はい」
 二人並んで夜道を歩く。
 同じ道を笑い合いながら歩いてゆける相手と、私は巡り会えた。
 けれど、ついこの間までは、そのことの値打ちを知ろうともしなかった。
 歌が歌えれば、それでいい。
 そう思っていた。
 頑なで、意地っ張りで、可愛げがなくて、他人とぶつかってばかりだった。
 それが今では、傍らを歩くプロデューサーと共にトップアイドルを目指している。
 私一人だったら、とっくに挫折してしまっていただろう。
 ここまで来られたのは、ひとえにプロデューサーと一緒だったからだ。そう信じている。
 だから、これからもよろしくお願いしますね、プロデューサー。
 そんな思いを込めて、私はプロデューサーの腕をぎゅっと抱きしめた。


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初出:【もっとあなたを】如月千早 20【好きになる】


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