「おはようございます」
 と挨拶して、事務所を見渡す。
 今日は打ち合わせをすると聞いていたのに、肝心のプロデューサーの姿は見当たらず、事務員の音無さんだけが黙々とパソコンに向かっている。他のスタッフも全て出払っているらしい。
「おはよう、千早ちゃん」
「おはようございます、音無さん。……今日は、プロデューサーはいらっしゃらないのですか?」
「ちょっと打ち合わせで外に出てるのよ。もう少ししたら、戻ると思うんだけど」
「そうですか」
 プロデューサーが戻ってくるまで、どうやって時間を過ごそうか。
 そんな考えを巡らす間もなく事務所のドアが開いて、プロデューサーが帰ってきた。
「ただいま、戻りました」
「おはようございます、プロデューサー」
「おう。おはよう、千早」
 プロデューサーはコートを脱いで椅子に引っかけると、何やら嬉しそうな表情を私に向けた。
「千早、仕事をもらってきたよ」
 その言葉を聞いた瞬間、私の顔には警戒の色が浮かんでいたと思う。
 歌い手になりたくてこの世界に入ったのに、グラビアとか歌とは関係ない仕事の方が多かったから。
 そんな私の心中を察してか、プロデューサーがすぐにフォローする。
「大丈夫。今度は、ちゃんと歌の仕事だ。安心していい」
「本当ですか?」
「本当だとも。今度の仕事は、ローカルFM局が主催するクリスマスライブへの出演だ。と言っても、まだ殆ど無名の新人だからな。前座でクリスマスソングのメドレーを歌うんだが。……それでも、構わないか?」
 プロデューサーの問いかけに、私は頷いた。
「構いません」
 水着姿になって写真を撮られることを思えば、何倍もマシだ。
「それじゃ、今から打ち合わせをしよう。小鳥さん、会議室空いてますか?」
「空いてますよ。今日の使用予定はなかったですし」
「ありがとうございます。じゃあ、これから会議室使うんで、鍵、借りていきますね」
「はい、了解です」

 私とプロデューサーは会議室のテーブルを挟んで、向かい合うように座った。
 席に着くと、すぐにプロデューサーは資料を並べはじめた。
「今回の仕事は、さっきも言ったように、ローカルFM局が主催するクリスマスライブへの出演だ。これは、某ショッピングモールで行われている毎年恒例のイベントで、その内容はラジオでも放送される。参加するミュージシャンは、有名ではないけれど、実力派揃い。音楽好きの間では割と認知度のある、いわば知る人ぞ知るというイベントでもある。で、このライブの前座としてクリスマスソングメドレーを歌ってほしい、という依頼が主催者であるラジオ局からあったんだ」
「なるほど」
「先方から、特に千早の名前を指定して依頼があってね。それで、今日、打ち合わせに行ってきたわけなんだけれども。どうだろう? もう一度訊くけれど、やる気はあるかな?」
 私の意志を確認するプロデューサーの言葉に、私は「もちろんです」と答えた。
「歌うチャンスをいただけるのでしたら、どんな歌でも歌います」
「よく言った。イベントそのものは小規模で、見に来るお客さんの数は多くないだろう。けど、きちんとした仕事をすれば、それを見ていてくれる人が絶対いるからな。気合い入れていこう」
「はい」
 そして、翌日からイベント本番に向けた歌の練習が始まった。


◇ ◇ ◇


 12月24日。イベント当日。
 ショッピングモール内の広場に特設されたステージの前には、続々とお客さんが集まりつつあった。その大半はクリスマスイブにモールに買い物に来たお客さんだ。もしかしたら、数少ない私のファンも混じっているかもしれない。
 主催するラジオ局の人の話では、チケットを買う必要のない無料のライブイベントなだけに序盤でしっかりとお客さんの気持ちを掴む必要がある。でなければ、すぐに立ち去って行ってしまう人も多いということだった。
 私はステージの袖に隠れて、客席を窺う。見知らぬ人々の群れ。果たして自分の歌が通用するのだろうか?という不安が頭をもたげてくる。
「これは、責任重大ですね」
 私がそう言うと、プロデューサーはどこかのほほんとした調子で応える。
「でもまぁ、千早なら大丈夫と思ったから、主催者も千早にトップバッターを任せたんだろうし。あまり気にしなくてもいいんじゃないか」
「だとよいのですが……」
「そんなに気負いこむ必要はないよ。リラックスして、伸び伸び歌うこと。それを心がけてくれ」
「わかりました」
「あとは、歌うことを楽しむこと、だな。楽しんで歌えば、お客さんにもそれが伝わる。そうは思わないか?」
「そうですね。せっかくの舞台ですから、目一杯楽しみます」
「よぉし、その意気だ!」

≪それでは、只今よりHEART−FM主催のクリスマスライブを開催いたします≫

 イベント開始を告げるアナウンスが流れる。
 そして、ステージ上にスタンバイしていたバンドの演奏が始まる。私が歌うクリスマスソングのイントロだ。
「よし、行ってこい!」
「はい」
 プロデューサーに背中を押されて、私はステージへと上がった。そして――

 私が歌う歌は、自分の持ち歌ではない。けれど、誰もが聴いたことのある定番曲だからこそ、私は精一杯の想いを込めて歌った。
 デビューしてから、色んな人に会った。たくさんの人たちに支えてもらった。
 そんな今までに出会った人たちの顔を思い浮かべながら、歌を歌える幸せを噛みしめながら、最後まで歌いきった。
 伴奏が終わって、客席から聞こえてきた拍手と歓声に、思わず体が震えた。
 私が「ありがとうございました」とお辞儀して、ステージの袖へ戻る。その間、ずっと拍手が聞こえていた。
 控え室へ入ると、プロデューサーが駆け寄ってきた。
「よかったぞ、千早。これで掴みはOKだな」
 プロデューサーの笑顔を見たとたん、私はホッとして全身から力が抜けた。
「おい、大丈夫か?」
 控え室でへたり込んでしまった私の顔を、プロデューサーが心配そうに覗き込む。
「大丈夫です。でも、ちょっと気が抜けてしまったかもしれません」
「緊張の糸、切れちゃったか」
「はい、そんな感じです。お客さんの拍手を聞いて、それで込み上げるものがあったというか、喜んでもらえてよかったというか。それまでは、私の歌でイベントを台無しにしたらどうしようって、そんなことばかり思ってましたから」
「そっか」
「この後の予定は、どうなっていましたっけ?」
「ライブの最後に出演者全員でステージ上で挨拶して、それで解散だな。それまではゆっくりしていていいよ」
「わかりました」
 控え室のストーブで暖を取りながら、私は薄い壁越しに聞こえてくる出演者の歌と演奏に耳を傾けていた。


◇ ◇ ◇


 イベントは無事に終了し、折角だからショッピングモールを散策してまわろうということになった。
「どうだった? 今日のイベントは」
「出番は短かったですけど、楽しかったです。すごく緊張しましたけど」
「そんな風には見えなかったけどな。とても堂々としていて、大物になる予感がしたよ、俺は」
「そうなれるとよいのですけど」
「なれるよ、きっと」
 そう言って、プロデューサーは大きなクリスマスツリーを見上げた。
「俺はね、今、あの星を見つけた東方の三博士みたいな気持ちだよ」
 プロデューサーの視線の先――クリスマスツリーのてっぺんには大きな星が輝いている。それは確か、キリストの降誕を知らせたというベツレヘムの星を模したものだったはず。
「如月千早という名前は、まだ無名に近い。けれど、いずれ誰もがその名を知る存在になる。そんな優れた才能が開花してゆこうとする現場に立ち会えていることを、俺は幸せに思うね」
「な、何を恥ずかしいこと言ってるんですか……」
「正直な気持ちだよ。千早に巡り合えたことを、俺は神様に感謝している」
 歯の浮くような台詞を真顔で言われて、私は顔から火が出るほど恥ずかしかったけれど、それ以上にとても嬉しかった。
 感謝しなければいけないのは、私の方だ。
 こんな強情で、理屈っぽくて、可愛げのない女の子を、真剣にプロデュースしてくれる人と出会えたことを感謝しなければ、きっと罰が当たるに違いない。
「私もプロデューサーに巡り会えて、よかったと思っています」
 可愛げないだけでなく、愛想もないですが、それでもいいですか?
 そんな気持ちを込めてプロデューサーを見つめる。
 だが、そんな私の気持ちを知ってか知らずか、プロデューサーは照れくさそうに笑うと、私に小さな包みを差し出した。
「何ですか、これ……?」
「今日は、クリスマス・イブだろ。だから、クリスマスプレゼントだ」
 ぶっきらぼうにそう言うプロデューサーから包みを受け取る。
「その、開けてみてもいいですか?」
「もちろん」
 リボンをほどき、包み紙をはがすと、中から綺麗な化粧箱が出てきた。
 その蓋を開けると、そこに入っていたのはスワロフスキーのペンダントだった。
「あまり高価いものじゃないけど、千早に似合うと思って」
「ありがとうございます、プロデューサー……」
「どういたしまして」
「でも、あの、私、何もお返しするものがなくて……」
「別にかまわないよ」
「しかし……」
「まぁ、いいじゃないか。名前を売るためとはいえ、不本意な仕事も色々やらせてきたからね。そのお詫びだと思って、受け取っておいてもらえると助かる、かな」
「そういうことでしたら……」
 ペンダントを首に掛け、思い出した過去数ヶ月間のあれやこれやを、そっと胸にしまう。
「それじゃ、そろそろ事務所に戻りましょうか」
 今日は、クリスマス・イブ。この後、事務所のスタッフと所属アイドルが参加しての、身内だけのささやかなクリスマス会が催されることになっている。
「そうだな。そろそろ戻るか」
「はい」
 二人並んで駐車場へと向かう。
 その道すがら、夕闇に瞬く星が目に入った。
 宇宙の彼方から届く光。
 見上げる私はちっぽけで、まだまだ前途多難のようだけれど、いつかはあの星のように輝くことのできる時が来るのだろうか。
 そんな日が来ることを願いながら、私はそっと空へ手を伸ばしてみた。


--
初出:【もっとあなたを】如月千早 20【好きになる】


BACK