出社するなり給湯室に引っ張り込まれた俺は、俺の右手を掴んだままの相手に抗議した。
「何なんだよ、千早」
 すると、千早は潤んだ瞳で俺を見上げて、謝罪の言葉を口にした。
「プロデューサー、ごめんなさい。でも、こうするしかなかったんです」
「こうするしかなかったって、何が?」
「さっきから、体の火照りが治まらなくて」
「は……?」
「プロデューサーに鎮めていただきたくて」
 そう言いつつ、千早はシャツのボタンに手をかける。
「ちょ、どういう……」
 俺が真意を質す前に、千早の白い胸元が露わになる。
「やめろ、千早。早まるなっ!」
「お願いです、プロデューサー。私一人では、もう……」
 涙声でしなだれかかってくる千早を受け止めて、これ以上、俺は平常心を保ち続ける自信がなかった――


「!!?」
 夢、か……。
 俺は事務所のソファの上で、大きく息を吐いた。
 なんて生々しい夢だったんだろう。
 しかし、幾ら何でも、お堅い千早があんなふしだらな真似をするわけがない。
 とすると、あれは俺が望んでいることなのか?
 夢には、その人の無意識的な欲求が現れるとも言うけど、まさか……な。
 夢の内容について自問自答していると、不意に背後から声をかけられた。
「おはようございます、プロデューサー」
 振り返ると、そこには千早が立っていた。
「おはよう、千早……」
「徹夜ですか?」
「あ、あぁ。……今日って、千早はオフじゃなかったっけ?」
「今朝、ご自宅に伺ったら留守でしたから、もしかしたらこちらかもと思って」
「俺が夜遊びして、外泊してる……とは考えなかったのか?」
「まさか。だって、昨日、春香と高槻さんの新ユニットをデビューさせるためのプランを作るようにって、社長から指示を受けてらしたじゃないですか。プロデューサーが仕事を放ったらかしにしたまま夜遊びなんて、それこそあり得ませんよ」
 そう言いながら、千早は慣れた手つきでコーヒーを淹れる準備をはじめる。
「その様子だと、朝ご飯、まだなんでしょう?」
「あぁ」
「そう思って、パン屋さんでサンドイッチを買ってきました。何も食べないのは体によくないですからね」
 そんな千早の後ろ姿をぼうっと眺めながら、俺はさっきの夢を思い出していた。
 いや、夢を見た俺自身の心の中を推し量っていた。
 夢に出てきたのは、俺と千早。
 その関係は、プロデューサーとアイドルというよりは、まるで……。
 そう、まるで恋人みたいで……。
 確かに、今の俺と千早の関係は、単なるプロデューサーと担当アイドルというだけの枠には収まっていない。
 プロデューサーである俺の健康を気遣って、甲斐甲斐しく料理を作りに来てくれる千早。
 そのおかげで、俺の食生活は劇的に改善し、心なしか体調も以前よりよくなってきたように思う。
 けど、それは手放しで喜んでいいことなのか。
 しっかりものの千早。その好意に甘えている俺。
 客観的に見れば、そうした構図が浮かび上がってくることは間違いない。
 いつの間にか、千早に通い妻みたいなことまでさせてしまっている。俺が千早のプロデューサーだからといっても、そこまでしてもらう権利は無いはずだ。
 公私混同もいい加減にしないとな。
「なぁ、千早」
 俺はコーヒーを淹れる千早の背中に声をかけた。
「俺たち、もう少し距離を置いた方がいいんじゃないだろうか」
 そう言った途端、千早の動きがピタリと止まった。
「どういう意味ですか?」
 と、返す言葉が震えている。
 いささか軽はずみな物言いだったかと後悔したが、遅すぎた。
「それは、アイドルとしての活動を休止するということですか?」
「違う! そうじゃない! 千早のプロデュースは今後も続けていくさ。でも、いや、だからこそ、俺と千早の関係をもう一度見直した方がいいんじゃないか。そう思ったんだ」
「関係を、見直す……」
「そうだ。プロデューサーとアイドル。その基本に立ち戻る必要があるんじゃないかと思うんだ」
「それは遠回しに、私がプロデューサーの家に料理を作りに行くのが迷惑だ、と仰っているのですか?」
「いや、そうじゃなくて、むしろ有難いし、嬉しいんだけど。でも、恋人同士でも無いのに、担当アイドルに通い妻みたいな真似させるなんて、公私混同も甚だしいだろ。それに、今後のことを考えると、千早に余計な負担をかけさせたくな――」
 言おうとした言葉を最後まで口にすることはできなかった。
 胸元に伝わった小さな衝撃。
 見下ろすと、千早が俺の胸に顔を埋めて肩を震わせていた。
「………さい」
「え?」
「そんなこと、言わないでください!」
 顔をあげた千早の瞳は、涙に濡れていた。
「負担だなんて、思ってません。プロデューサーが健康で、私のことをプロデュースしてくれる。そのためにやることが、負担なわけないじゃないですか!」
「千早……」
「それに、私にはもうプロデューサーしかいないんです……。プロデューサーを失ったら、私は……」
 そう言って、千早はまた顔を伏せた。
 ステージ上で圧倒的な存在感を示す彼女。だが、その実体は15歳のか弱き少女なのだ。
 細い肩を震わせて泣く千早に、俺は申し訳なさでいっぱいになった。
 プロデューサーである俺までが、一ファンのように、彼女の魅力に幻惑されていてどうする。
 ありのままの千早を受け止めて、サポートしていくんじゃなかったのか。
 俺は千早の華奢な体をそっと抱きしめて、素直に謝ることにした。
「ごめんな、千早。俺が軽率だった。前言撤回するよ」
「では、明日からも、プロデューサーのお宅にお邪魔してよいのですね」
「あぁ。でも、千早が来てくれることは、ちっとも邪魔なんかじゃないよ」
「ありがとうございます。……でも、どうしていきなりこんなことを仰ったのです? 何か理由があるのでしょう?」
 相変わらず、鋭いところを突いてくる。
 だが、誤魔化すわけにもいかないだろう。これだけ千早を泣かせたとあっては。
「実は、夢を見たんだ」
「夢……ですか」
「千早が出てくる夢だった。俺と千早が恋仲みたいな、そんな感じでさ。その夢を見た後で、俺は千早にものすごく甘えてしまっているなって、反省したんだ。俺はプロデューサーとして、千早の夢をかなえるサポートをしないといけない立場なのにな」
「それで、距離を置こう……と?」
「そういうことだ。近くにいるからこそ見えないことってのも、あると思うんだ」
「言われてみれば、そうかもしれないですね……」
「だろ? 千早が俺のことを気遣ってくれるのは嬉しいんだけど、プロデューサーとしては千早自身のことを何よりも大切にして欲しいしな」
「仰りたいことは、わかります。けど――」
 なおも言い募ろうとする千早を俺は手で制した。
「話は後だ。その前に、朝飯にしよう」
「わかりました。では、お話は後でじっくりと」
「お手柔らかに頼むよ」
「ふふっ。……あ、そうだ。プロデューサー?」
「なんだ、千早?」
「私はプロデューサーと、その、恋仲でもいいかなって思ってます」
「お、おい……」
「だって、その方が、プロデューサーにとって特別な存在になれそうですから」


「コーヒー、すっかり苦くなっちゃったな」
「プロデューサーが余計なこと言わなければ、美味しく淹れられてたはずでした」
「悪かった。責任を取って、このコーヒーは俺が全部飲むよ」
「え、でも……」
「千早を泣かせた罰だと思えば、安いものさ」
「プロデューサー……」


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初出:【忘れてませんか?】 如月千早19 【55・78】


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